「リンカーンの国から」

 

(25)アンダーグラウンド・レールロード 

オハイオ州シンシナチ

 

 

 

Text Box:   2004年8月、オハイオ州シンシナチ市に、アンダーグラウンド・レールロード・フリーダムセンターがオープンした。センターの建設には、1996年にシンシナティに北米本部事務所を設置したトヨタが、100万ドルを寄付したという。オハイオ川に面して立つ巨大な建造物である。川の向こう岸は、かつての奴隷州ケンタッキーである。

 

 オハイオ川は奴隷州と自由州の境界をなした。南部の奴隷制から逃れようと、奴隷たちは必死の思いでオハイオ川までやってくる。この川さえ渡ることができれば。。もう自分は自由になれる。。確かに1850年まではそうだった。逃げさえしたらよかったのである。が、1850年に成立した厳しい逃亡奴隷法では、たとえ自由州のオハイオに入っても、つかまえられると、逃亡奴隷として所有主に送り返される。いや自由黒人でも誘拐されて、逃亡奴隷だと言われればそれで終わりである。自由州といえども安全ではなかった。逃げなければならない、夜の闇にまぎれて密やかに、もっともっと北へ、カナダまで。。北極星だけが頼りだった。

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 オハイオ川を渡って逃亡した奴隷の数は一説には4万人以上、逃亡奴隷の40パーセントといわれている。オハイオ川岸からは500以上のアンダーグラウンド・レールロードのルートが生まれたとか。

 

 アンダーグラウンド・レールロードとは、無理をすれば「地下鉄道」とでも訳せそうである。しかし鉄道といっても、車両に乗り込んで地上を走る鉄道ではない。隠れて「鉄道」の役割をする運び屋のネットワークとでも言おうか。アンダーグラウンドとは秘密という意味である。秘密の地下鉄道が運んだのは逃亡奴隷たちである。

 

 南北戦争以前から、奴隷たちは、自分や家族のためによりよい生活を求めて逃亡を企てた。アンダーグラウンド・レールロードとはその逃亡ルートのことである。時には道なき道を走り、船底に隠れて川を渡らねばならなかった。季節も考えねばならなかった。食べられる野草も知っていなければならなかった。どこを通って、どうやって、いつ逃亡するのか。すべて自分で決めねばならなかった。もしつかまれば、ひどい仕打ちと再び奴隷として売りとばされる運命が待っていた。それでも多くの人々が命がけで、奴隷といういわれなき抑圧の足枷から逃れようとした。テキサスからは南、メキシコへ、フロリダからはキューバやジャマイカ、ハイチといったカリブ海まで人々は逃れようとした。

 

 奴隷制に反対する白人や自由黒人、奴隷解放論者たちは一夜の宿ー""ーを提供し、食べ物や服を与え、そして次の""まで自由を求める人々を運んでいった。"コンダクター"と呼ばれる助ける人間たちもまた、評判がたち、密告されて逮捕、罰金に財産没収や追放、投獄, もちろん処刑される危険性すらしょっていた。それでも人々は、自分たちの信念をまっとうしようとした。"コンダクター"の中には自らが逃亡奴隷の人もいたし、インデイアンもいた。有名なのはペンシルバニアを作ったクエーカー教徒たちである。 

 

 ストー夫人の有名な小説「アンクルトムの小屋」にも、カナダに逃げる奴隷たちの姿が出てくる。有能だったジョージと妻のエリザである。ジョージは黒人たちに理解のあるオーナーのもとでビジネスの才能を発揮したが、売られた先の新しいオーナーがジョージの才能をやっかみ、いじめたため、自分を取り戻したいと妻と子を残して逃亡する。残されたエリザも、小さな幼児の息子と自分が別々のオーナーに売られていく運命を知り、ジョージのあとを追って逃亡。のちに二人は神のめぐりあわせで再会、合流することができるのだが、再会できたのはもしかしたら、二人が逃亡に使ったルートがよく知られているものだったからではないだろうか。

 

 1841年、英国のビクトリア女王は、所有主から逃れてきた奴隷は、カナダの土地に到着すればすぐにカナダ市民として認めると宣言した。人々はカナダを目指しはじめる。とりわけ、厳しい逃亡奴隷法が成立した1850年以降、その動きが活発化した。

 

Text Box:   実は私は、オハイオ川を初めて見たとき、落胆の思いを隠せきれなかった。中西部の開拓の歴史には欠かせない大きな存在なのに、思ったより小さかったのである。水を豊かに湛えた大河かと思えば、ありゃあ、ミシシッピとは大違い、ちょっと名前負けしそうな感がする何の変哲もない普通の川だった。昔はもっと狭く、浅かったというから、ふ〜〜ん、泳ぐのはそんなに大変だったのだろうか、と、気楽な現代を生きる人間の無責任な感想に、我ながらいやになった。

 

 センターに入ってまず目を引くのは、対岸の北部ケンタッキーで見つかって、センターに移されてきた大きな奴隷小屋だろう。川を下って売られていく前に、奴隷たちを"保管しておく倉庫"である。小さな格子窓が3つ、4つあるだけの、これまた何の変哲もない大きな小屋だ。中には、奴隷たちの"暗号"が刻まれていたり、鉄輪が今だに残されている。

 

Text Box:   膨大な展示と資料、ビデオを改めて学んだことー女性問題である。奴隷船では、男は、運ぶ数が多いほどいいわけで、船底に身動きできないほど詰め込まれたが、女はそのひとつ上の段で、男ほど閉じ込められることはなかった。船員がレイプできるようにという"配慮"である。寸分の隙もなくぎっしりと詰め込まれた男用"船室"の絵はあちこちで見かけたが、女用のそれは見たことがなかった。かつ、母親が奴隷だと、生まれた子供も奴隷になるが、母親が"自由"だと子供も"自由"だったとのこと。ふ〜〜〜ん。奴隷制って"女系制"だったんだ。そうじゃないと、プランテーションの"旦那"とのあいだにできた子が"自由"になって、せっかく増やせる"財産"が減っちゃうというわけかあ。。あとやはり、家内労働についたきれいな奴隷女性と、旦那の妻とはいろいろな嫉妬心、確執があったらしい。奴隷女性に子供が生まれたら、すぐに"商品"として売り飛ばすのが得策なわけで、母親と子供のあいだに家族の絆はなかったとか。ふ〜〜〜ん。

 

 センターを出て、目の前を流れているオハイオ川をもう一度見やると、どどっと疲れが出た。奴隷制自体をうんぬんする気持ちより、いつの時代でもなんでこう生きていくのは大変なんだろう、という思いが先に立った。戦争が絶えぬ現代にも"奴隷制"はあるのである。センターは、シンシナチの歴史にのっとった重要な"観光"資源ではあるけれど。。。思うのである、本当はみんな、心のどこかでそれぞれの"奴隷制"を抱えこんで、呻吟しているのではないの、と。