リンカーンの国から

 

(27)雌伏の時代―リンカーン

 

 

首都ワシントンで「失敗」したリンカーン。1849年3月31日、イリノイに戻ってき、政界から身をひいた。そして、「失敗」を忘れようとするかのように、弁護士業に精を出すようになる。雌伏の時代の始まりである。

 

イリノイでは、前年の1848年にイリノイ・ミシガン運河が開通、ミシガン湖とミシシッピ河がつながっていた。この運河により、東部のニューヨークが、エリー湖、ミシガン湖、イリノイ・ミシガン運河、ミシシッピ河、そしてメキシコ湾を経てニューオーリンズとつながるという、一大商業圏が形成され、その中間点であるイリノイがいよいよフロンティア時代を脱し、経済発展を進めようとする転換の時代でもあった。ビジネスチャンス到来である。

 

リンカーンも、よし今だ、と思ったのかどうか、3月に申請しておいた特許が5月22日認められている。特許番号6469で、new and improved manner of combining adjustable buoyant chambers with steam boats or other vessels とのこと。何なのかさっぱりわからないが、河川交通が盛んになった時代を読んだ特許であることは確かである。

 

 6月、自分の「失敗」の種、メキシコ戦争で活躍した英雄、ザッカリー・テイラー将軍の選挙戦を応援した見返りに、Commissioner of General Land Office の仕事がほしいと"おねだり"したもののかなえられず、かなりの失望を味わい、8月には、まるでリンカーンの気持ちをなだめるかのように、オレゴンテリトリーの州務長官の仕事をオファーされたが、ここは意地張って辞退。政府側はもう一歩譲歩して、9月に、オレゴン州知事の仕事を打診したが、リンカーンさん、これまた意固地に辞退。よっぽど頭に来ていたのだろう。加えて、妻メアリが「子供の教育を考えたら、そんなド田舎、行けるはずないでしょ」と怒鳴ったとか。納得である。

 

1850年に入ると、ますます弁護士業に力を入れる出来事が続いた。2月1日、4歳にもなっていなかった次男エドワードが2ヶ月の闘病ののち死亡、その苦しみから逃れるように、リンカーンはイリノイ州の14の郡を回る第8巡回裁判の仕事を再開、有能な弁護士として評判が高くなり、かつリンカーンの収入も増えた。年の終わり、12月21日には、エドワードの生まれ変わりのようにして、Text Box:  三男ウイリアムが生まれている。

 

この頃からである、妻メアリの異常な精神状態が観察されるようになったのは。家を離れることの多い夫に代わって家を切り盛りし、朝から晩まで小さな子供たちや乳飲み子の世話に追われるのは、若き日は社交界の花だったメアリにしては、時には苦痛以外の何ものでもなかったに違いない。「私、ここで何してるのだろ。なんで毎日こんなこと、しなきゃならないのよ」とののしっていたのだろう。奴隷を持つ家で育ったのならなおさらである。

 

一方、リンカーンのほうは、そんなメアリの苛立ちと癇癪にも知らん顔を決め込んでいたようだ。とにかくシンプルに切り抜けること、声を荒げることもなく、ただ「嵐」が過ぎ去るのを待っていたようだが、近所の口うるさいおばさんたちは、「あそこはかかあ天下だ、尻に敷かれている情けない亭主ね」と笑っていたらしい。

 

 生の次は死で、1851年1月17日、リンカーンの父親死亡。それから2年ほどは特に何もなく、1853年4月4日に、リンカーンが嫌った父親の名前を受け継いだ4男トーマスが誕生している。そんな穏やかな雌伏の時代に、新しい町「リンカーン」が誕生した。

 

 イリノイ中部、州都よりちょっと北に、人口15400人の町がある。まだ誰も住んでいなかった1853年8月27日、土地の開発業者もしくは不動産屋たちは、一番最初のロットを売りに出した日を記念して、土地の登記書でも準備するのだろう弁護士リンカーンに、一肌脱いでもらおうと考えた。で、リンカーンは何をしたか。すいかを割って、その汁で町を"洗礼"したのである。そして、町は「リンカーン」となった。

 

Text Box:  現在のアムトラックの駅の近くに、4つ割りぐらいの大きな「すいか」が置いてある。「すいか洗礼」の場所である。立派な駅舎は今はレストランである。そばに小さなアムトラックの待合所がある。線路は単線だが、昔はここが一番にぎやかな場所だったに違いない。今でも日に一度シカゴとセントルイスを結ぶ列車が走る。

 

 あの暑い夏の日(と勝手に想像して。。)集まった人々は、木材の上に座って、事の成り行きを見守っていた。リンカーンはポケットナイフを取り出し、すいかを切った。ナイフはちょうどすいかの底まで届き、すいかはきれいに割れた。リンカーンは、すいかの汁をブリキのコップに入れて言った。

 「みなさん、ここの土地の持ち主から、洗礼するように頼まれました。それで、すいかを選びましたので、その汁を地面に落とし、洗礼の儀としたいと思います。さあ、みなさんの目の前で、みなさんが証人です、今、私はこの土地を洗礼いたします。町の名前は"リンカーン"、まもなくローガン郡の中心地となるでしょう。そして私は、今日の日のために、お祝いを用意しました。」

 そう言うと、ワゴンに積まれたすいかの山を指して、「さあ、自由に食べてください」

 待っていた人々が、わあ〜〜いと歓声を上げて、すいかにかぶりついたかどうか。。節分の豆まきのようにして、すいかをみなに投げて配ったとも思えない。

 

 弁護士リンカーンが、ワゴンいっぱいのすいかを準備したとも思えず、どこまでほんとか冗談なのか分からないような話だが、すいかで洗礼したというのは歴史的事実らしい。

 有能かつ多忙、裕福な弁護士が、こういう「地方」の行事にも気持ちよく同意し、執り行ったというのは、時代の素朴さなのか、それとも庶民派リンカーンゆえか。でも、どう考えても、ワシントンを根城に、国政に深く関わったリンカーンの政敵、連邦上院議員スティーブン・ダグラスがすいかを割って、みなの拍手を浴びるといった光景は想像しがたいなあ。。

 

 駅に近い「すいか洗礼」の場所で、リンカーンは生き続けた。1860年11月21日には、大統領に選出されたリンカーンがシカゴへの途中でスピーチしたり、1865年5月3日には、リンカーンの遺体を運ぶ列車がスプリングフィールドに向かう途中ここに止まり、人々が見送るなど、その後も町の「リンカーンゆかり」の場所であり続けた。

 「すいか洗礼」の1853年は、雌伏の時代の終わりでもあった。翌1854年、リンカーンは再び政界に戻っていくのである。