リンカーンの国から

 

(21)スティーブン・ダグラス

 

 

 

イリノイは「リンカーンの国」と呼ばれているけれど、リンカーンの政敵、スティーブン・ダグラスさんの経歴を見ると、ほんとにリンカーンは運がよかったね、と言いたくなる。言いかえれば、ダグラスさんは、リンカーンとは比べものにならない出自のよさといい、経歴の華やかさといい、政治家としてのキャリアといい、大統領になっても当然だったのかも知れないのに、なんとも不運な人である。

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 1813年4月23日、ヴァ−モント州ブランドン生まれ。家族とともにニューヨークに移り、法律を勉強しようとしたが、ニューヨークで弁護士になるには時間がかかるすぎと、じゃあ、もっと簡単なところへ、と西部に。1833年20歳の時に、イリノイにやって来、法律の勉強を再開。お金も友達もなかったが、期待通り1年もたたずして1834年、弁護士となり、エドワード・ビーチャ−のいたジャクソンビルで開業。やがて、興味は法律家から政治家へ。1835年には州検事に選ばれ、1836年から1837年まで州の下院議員、1838年にはすでに連邦下院議員を狙ったが失敗、1840年、41年の州議会ではイリノイ国務長官と州最高裁の判事に選ばれている。1843年から1847年までは民主党からイリノイ選出の連邦下院議員、1847年から1861年には、上院議員という華やかさである。そのあいだ、1852年と1856年には、大統領選の民主党候補を争ったがなれず、1858年には上院議員の席をリンカーンを破って獲得、1860年にやっと念願かなって民主党大統領候補になったのに、リンカーンに負けて、失意のなか、翌年の1861年6月3日、腸チフス熱か急性リューマチかでシカゴにて死す、という波乱万丈さである。わずか48歳の若さだった。8年もの州下院議員と連邦下院議員一期しか務めていなかったリンカーンに、大統領選で負けるなんて、さぞ悔しかったに違いない。

 

 妻のマーサ・マーチンとは、連邦上院議員に選ばれた1847年3月に結婚。ダグラス34歳。何やらリンカーンに負けず劣らず「もらい遅れ」だなあ。が、この結婚によりダグラスは、ミシシッピで奴隷を使う大きな綿花プランテーションの経営という新しい責任を負うことになった。大統領を狙う、自由州イリノイ選出の上院議員としてはむずかしい立場に追いやられた。リンカーンといい、やはり結婚で人生が変わるのは女だけではないらしい。

 

 しかしダグラスは、奴隷所有者という批判には「不在地主」で切りぬけ、プランテーション経営から得る利益は自分の政治・選挙資金に使った。それでも、ダグラスがミシシッピを長期訪問したのは、結婚翌年の1848年一度だけで、それからは訪ねることがあっても非常に短かったとか。

 

 人生の大きな転換期となった1847年夏に、イリノイ西部クインシーからシカゴに引っ越してきた。が、マーサは、小さな息子二人残して、1853年1月に死亡、3年後の1856年11月、ダグラス43歳の時に20歳のアデ−ル・カットと結婚している。アデ−ルは、1809−1817年在任のジェームズ・マディソン大統領の妻、ドリー・マディソンのひ姪にあたるという名家の娘である。ひ姪と言われても。。つまり遠縁ということか。何やら自分の娘みたいな妻である。

 

スティーブン・ダグラスの特徴は、4フィート6インチ(137センチ)から5フィート4インチ(163センチ)のあいだといわれるほど、非常に小柄だったことだ。「あいだ」とは、意地でも身長を測らせるようなことはしなかっただろうなあ。大きな頭に厚い胸・肩とがっちりとした体躯で、リンカーンが痩せて6フィート4インチの長身だから、政治的対立のみならず、身体的にもその対比はかなり揶揄されたに違いない。

 

しかし、小柄な分だけ、自分を大きく見せようとしたかどうか、声は大きく力があって、話し方には品がほとんどなく、その身振りは暴力的ですらあったという。だから、リーダーシップをとるには最適で、かつ議論すると機敏があり、巧みに技巧を凝らすので、1850年代の連邦議会で一番有力な政治家の一人となった。あだ名は「リトル・ジャイアント」である。

 

Text Box:   その「リトルジャイアント」の墓が、シカゴの南にある。夜になるときれいにライトアップされ、こぎれいに手入れの行き届いた小さな公園のようになる。かつてダグラス家の地所だったところである。

 

 ダグラスのいとこを妻にしたシカゴの彫刻家レオナード・ヴォークがデザインし、1881年に建てられた96フィートのモニュメントが墓の上に立つ。モニュメントの四隅には、ダグラスを象徴する言葉が刻まれている。雄弁, イリノイ、歴史、そして正義である。モニュメントのてっぺんには、立ち姿のダブラスのブロンズ像があるが、高すぎてよく見えない。

 

 ダグラスは、1854年にカンサス・ネブラスカ法を通したことで有名である。カンサス・ネブラスカ法とは、国を二分しかけていた奴隷制問題を国政からはずそうと、新しいテリトリーでの奴隷制の導入決定は、それぞれのテリトリーで、住民投票という住民の自治で決めればいいというものだ。ダグラスの予想では、住民投票にかければ、カンサスは奴隷州に、ネブラスカは自由州になって、国政のバランスはとれるだろう、と考えたのである。さすが知恵者だあ。。それも、住民自治という見栄えのいいもので飾ってあるではないか。

 

 ところが、選挙となると、ネブラスカのほうは筋書きとおりに事が運んだが、カンザスでは破局的な展開となった。 

 ダグラスが通した法案は、一見民主的に見えたけれど失敗、逆にダグラスの命取りとなった。こざかしく考えて、技巧を凝らしすぎるとそうなるのである。なぜダグラスは、そんなめんどくさいことをしてまで、北緯36度30分以北では奴隷制は禁止とする1820年のミズーリ妥協案の変更を画策したのか。もちろん、我が身かわいさからである。ああ、偉大なる政治家よ。。

 

 シカゴをターミナルにして、中央大草原地帯に大陸横断鉄道の敷設を考えていたのである。それで、自分が大地主であるイリノイの地位を高めようと、鉄道をメキシコ領を通る南路ではなく、北寄りに確保したいという思いがあった。北部に多くの開拓者をひきつけ、準州として昇格させねばならない、そのために議会を掌握しておきたい、南の支援が欲しい、新しいテリトリーへの奴隷制拡大を禁止したら南北戦争を呼ぶだろう、南部の票を得ようと、新しい準州にも奴隷制を拡大できる可能性を示唆したわけである。「住民投票」という美辞麗句のカムフラージュでもって。。。頭いいねえ。。さすがあ。。ダグラスさんも南部にプランテーションをもってたわけで、うまくいけば、北部も南部もーつまり国そのものが我が掌中に、って感じだったのかなあ。。すごい。。

 

Text Box:   と、そうは問屋が下ろさんぞ、と立ちあがったのがリンカーンだった。リンカーンは奴隷制廃止論者ではなかったが、新しい土地への奴隷制導入は絶対阻止、と強硬な態度に出た。もしかして、これまた頭のいいリンカーンさん、ほんとは奴隷制うんぬんよりも、「お前の私腹をこやすようなことは絶対させねえぞ」ぐらいの、貧しかった自らの生い立ちを思い出すと渦巻きはじめるどす黒いジェラシーあたりがその原動力だったかも。。

 ダグラスさんはきっと、自分が考えた「美しき折衷」案が、北部の強硬な反対にあうとは夢にも思っていなかったのだろう。読みの甘さはやっぱり結婚で得たプランテーションが足をひっぱったかなあ。。

 

 モニュメントの土台となっているダグラスの墓に入ってみた。大理石に囲まれた空間はひんやりと冷たい。昔、インドのタージマハール廟にはいった瞬間がよみがえった。立派な大理石の棺の上に、ダグラスのこれまた立派な胸像が置かれている。強い意思とエネルギーが顔中からみなぎっている。リンカーンと違って、鬱病とは縁のなさそうな顔だ。棺の側面に刻まれた言葉ー「子供たちに伝えよ、法を守り、憲法を堅持せよ」ぎゃっ、息子たちはどうなったのだろう。こんな言葉を父親から残されると、これまたトラウマにでもなりそうだなあ。。

 

 かつてダグラスの地所は、ミシガン湖畔までのびる広大なものだった。今日、墓とモニュメント公園は、黒人街のど真中にひそやかにある。そして、その公園の下を走っているのが、ダグラスが誘致に奔走した鉄道線路である。モニュメントの頂上のダグラス像は東を向いてその線路を見下ろしている。シカゴを起点にする大陸横断鉄道が完成したのはリンカーンの死後の1869年。熱心にアメリカの西方積極的拡大を推進した政治家ダグラス、最後はリンカーンの盟友になったという。交通網の充実をはかり、産業の育成を推進しようとした共和党員リンカーンのこと、大陸横断鉄道のおかげで、シカゴはのちに商業大都市に発展したわけで、結局リンカーンも「ダグラスさまさま」かなあ。。