イリノイこぼれ話

 

サイレント、だから、や・さ・し・い

 

私は今だに携帯電話を持っていません。ああ、この一文だけで、「この人、変わってる」という声が聞こえてくるようです。(笑)

 

Text Box:  携帯電話の普及で、私自身は、世界は余分な音に侵食され、居心地悪くなったと思っています。確かに便利かも知れない。でも、その便利さゆえに、失ったものはないのでしょうか。そして何よりも、容易に音―言葉―人にアクセスできるだけに、かえって不安感を煽られがちになり、ますます人―言葉―音に頼るようになるのではないか。。。人は音という蟻地獄に落ち、氾濫する言葉はただ力を失っていくだけかのようです。

 

 過去30年間書き続けてきたライターとして、確信をもって言えることー身体の奥に、心のひだの底に刻み込まれ、その人を動かし続ける本物の力や気持ち、経験は、なかなか言葉にはなりません。言葉にするのは、ほぼ不可能かも知れない。古今東西、それは変わらず、これからも変わることはないでしょう。

 

100年前、今よりもはるかに人は、「目は口ほどものを言う」という人間の本質を理解し、声を聞く眼力と、言葉にならない人の気持ちを想像する優しさ、想像できる強さをもっていた、と私なんかは思ってます。サイレント映画です。(笑)

 

2007年10月に開かれたシカゴ国際映画祭で、映画産業誕生100周年を祝う特別プログラムがありました。そこで私は、シカゴのエサネイ社が1907年から1915年のあいだに作ったサイレント映画7本を見ました。その中には、エサネイ社が初めて作り、チャーリー・チャップリンが出演した映画、His New Jobもありました。

 

サイレントな黒白世界に登場する100年前の人間たちの動きには、確かにぎこちないものがあります。でも、役者たちの動きに合わせた、時には楽しげ、時にはひょうきん、時には物悲しく、時には激しいピアノの生演奏が彼らを盛り立てます。そして、顔が大写しになって、大きな眼をぎょろりと左右に動かす役者たちは、どんなに小さな表情の変化にでも、気持ちを託そうとします。その渾身の演技を見ていると、不思議に透明な言葉が浮かんでくるのです。それは、観客が身につけている英語・日本語といった言語の違いを超えた、言葉にはならない人間共通の何かに違いありません。人を理解するのに言葉はいらないー映画館の中で、はっきりそう感じました。

 

Text Box:  1897年、シカゴに、世界最初の映画製作スタジオ「セリグ・ポリスコープ社」が、その10年後の1907年に、エサネイ社が設立されました。翌1908年に、アップタウンにエサネイ・スタジオが作られ、以後、数多くの西部劇が照明ライトの下で生まれました。有名なのは、経営者の一人だったギルバート・アンダーソンが演じた375本もの「ブロンコ・ビリー」シリーズとか。サイレントの西部劇って、馬の蹄から、撃ちあいの音まで全部、自分で想像するのでしょうか。ああ、血が騒ぐなあ。。(笑)

 

Text Box:  時すでに、インディアンは居留地に追いやられ、アメリカからフロンティアが消滅していた時代。でも、西部の広大な土地を目指した無数の人々の夢とロマンが、東部と西部をつなぐ拠点だったシカゴの発展を促し、そしてアメリカの原風景となって、アメリカ文化を創りあげました。エサネイ社のロゴがインディアンなのも、映画が誘った失われた時代へのノスタルジアから、かも知れません。

 

そして、早川雪洲。1908年にシカゴ大学に入学、政治経済学を勉強したサイレント映画の日本人大スターも、1915年までに、ロサンゼルスで4本の西部劇に出演、インディアンを演じたとのことです。一方、平原インディアンであるスー族の人たちは、映画の中で、日本人の村人を演じたりしたそうです。そして、早川はもちろんのこと、インディアンの役者たちも、その威厳と自制心、慎みのある演技が高く評価されたそうです。(Daisuke Miyao Sessue Hayakawa   2007,  77 ページ)

 

当然ですよね。「以心伝心」「男は黙って。。」「親の背中を見て子は育つ」といった、本物の力を内に秘め、言葉より気配を察して行動する、寡黙を尊ぶ伝統は、ディベート好きな、「言われなければ分からぬ、分かろうとしない」文化に「汚染」される前の、日本とインディアン戦士文化の共通項であり、“サイレント”の真髄だと思うから。

 

Text Box:  サイレント、だから、つよい、だから、や・さ・し・い。 携帯電話が手離せず、絶えず人の声に囲まれていなければ落ち着かない人に、ほんとに優しい人なんているの??(笑) とは、言いすぎかな。。(笑)

 

 その後まもなく、映画製作の中心は、天候が安定しているカリフォルニアに移っていき、エサネイ・スタジオは1917年に閉鎖されました。現在は、チャーリー・チャプリンの名を冠した講堂をもつカレッジになっています。