「リンカーンの国から」

 

(22)州下院議員時代

 

 

連邦議会で10年以上活躍したスティーブン・ダグラスと比べると、リンカーンは非常に「謙虚」ということになる。まず年齢的に4つ年上で、州下院議員も、ダグラスは1836年から一期務めただけだけど、リンカーンは、なんと1834年から42年まで4期、8年も務めているのである。大きく違うのは、ダグラスは東部時代から勉強し、1834年にイリノイで弁護士になったが、苦学のリンカーンさん、州下院議員に選ばれたあと、のちに妻となるメアリー・トッドのいとこのスチュアートさんに見出されてから法律の勉強をはじめたわけで、無事に弁護士になったのは、ダグラスさんに遅れること2年、1836年である。やっぱり文明の地「東部」出身は強かったかなあ。。

 

 ダグラスが、州下院議員を1期2年務めたあと、1838年にはすでに連邦下院議員を狙うという弁護士より政治家志向を強め、華やかなキャリアを築いたのに対し、リンカーンは、ただひたすら州の下院議員と弁護士業、そして1839年からは巡回裁判所の判事もひきうけて、地に足をつけて市井の人々の生活と関わって生きた。

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 ダグラスはワシントンで名前を売ったが、リンカーンは、イリノイという東部から見ればど田舎の名もなき弁護士・判事で、東部出身のダグラスにしてみれば、「ふん、田舎者めっ」って感じだったのだろうか。が、最後の土壇場の大勝負、1860年の大統領選で、リンカーンは初めてダグラスを破り、しかも頂上を極めてアメリカの大統領になるのであるから、人生、何が起こるかほんとにわからぬものだ。

 

 イリノイは、州となった1818年からずっと民主党州だった。知事も上院下院とも、ダグラスが率いる民主党が支配した。共和党の知事が登場したのは1860年のジョン・ウッドが初めてで、それから1893年まで共和党知事が続いた。

 

 一方、リンカーンは迷うことなく最初から野党ホイッグ党支持だった。工場や道路・運河、鉄道建設、銀行システム整備と社会の近代化、経済開発を進めようとするホイッグ党は、リンカーンが子供時代から身に刻みこんだフロンティア生活のさまざまな困難を解決してくれるものにほかならなかった。アメリカ建国当初、トーマス・ジェファーソンが指導した共和派のように、農業や農夫に対する牧歌的なセンチメンタリズムをリンカーンは一切もちあわせていなかったようだ。「農夫といっても、ほかの人と比べて、別によくも悪くもない」と切り捨てている。よっぽど子供時代の労働、それも父親によって他人に貸し出され、賃金は親に「巻き上げられる」という労働が身にこたえたようだ。もちろん肉体労働を尊重はしたが、資本に反対したわけでもなかった。連邦議員ヘンリー・クレーが推す「アメリカンシステム」の熱烈な信奉者だった。

 

Text Box:   「アメリカンシステム」とは、建国当初のアレキサンダー・ハミルトンが率いた連邦派の主張の流れをひくものである。つまり、製造業を発展させて工業化を進め、道路や運河建設といった政府主導の公共事業を推進して、国内のインフラを充実、その費用を捻出するためには西部の未墾の土地の価格を高く設定、英国からの輸入品には高い関税をかけて国内産業を保護するという、北部の実業・金融界、中産階級が支持した政策である。リンカーンは、「去年他人のために働けば、今年は自分のために働き、そして来年は人を雇って自分のために働かせる可能性があるシステム」を尊敬した。奴隷制はそういう経済機会と人間の可動性を与えないと、イリノイ下院議員リンカーンは1837年に初めて奴隷制反対を表明している。

 

リンカーンは、結婚して家を買ったころ、ヘンリー・クレーの選挙戦のために尽力している。クレーは大統領選に5度挑戦した人物である。まず1824年、ジョン・アダムスやアンドリュー・ジャクソンたちと争い、結局はアダムスが大統領に選ばれ、ヘンリーは国務長官を務めた。8年後の1832年、クレーは国民共和党から大統領候補に指名され、民主党のアンドリュー・ジャクソンと銀行制度を焦点に争ったが敗北した。1834年に国民共和党はホイッグ党と改名、1840年クレーはホイッグ党の大統領候補指名を狙ったが、ヘンリー・ハリソンに負けた。1844年には無事に指名を勝ち取ったが、民主党のジェームズ・ポークと争い、わずか5000票の差で再び敗北、最後の1848年には、米西戦争のヒーロー、ザッカリー・テイラーとホイッグ党の指名争いをして負けた。なぜクレーはどうしても勝てなかったか。あまりにも頭が良すぎて、大衆との接点をなかなか見出せなかったのではないだろうか。加えて、奴隷制には強固に反対、「アメリカンシステム」を強く押しすぎるきらいがあって、南部の支持を得られなかったのである。まあ、そんなにがちがちにならなくても、と回りから警告を受けると、クレーは「大統領になるよりも、私は"正しい"ことをする」と言い返したとか。「信念の人」と「武士は食わねど高楊枝」のあいだで線引きをするのはむずかしい。そんなクレーの支持基盤拡大を狙って、リンカーンは、南部イリノイからケンタッキー、インディアナと選挙運動をした。

 

 それにしても、リンカーンが8年もこだわった州議会で、この奴隷制反対表明以外にいったい何を言い、したのだろう、と資料を探したが、なかなか出てこない。1836年の会期には、民主党のスティーブン・ダグラスも同じ下院議員だったことだし、民主党対ホイッグ党で議会でやりあったことはなかったのだろうか。

 

 1830年代の州下院議員時代のリンカーンといえば、「女」のことばかりが資料に出てくるのである。あえていえば、1837年に州都をバンダリアからスプリングフィールドに移す法案を通過させるのに、サンガモン郡選出のホイッグ党の9人の議員グループが、みんな6フィート以上あったので、「ロングナイン」と呼ばれ、リンカーンもその中の一人だったぐらいである。ふ〜〜ん、下院議員って一種の名誉職なのだろうか。だから、弁護士や判事職も兼任できたのだろうか。

 

 クレーがホイッグ党の指名を勝ち取った1844年の大統領選にイリノイから立候補した人物がいる。末日聖徒イエスキリスト教会(通称モルモン教会)の創始者、ジョゼフ・スミスである。イリノイはモルモン教会の歴史と深く関わった。スミスはイリノイ政界とパイプをもったから、下院議員だったリンカーンもスミスを知っていたはずなのだが、資料にはほとんど出てこない。

 ミズーリ州で迫害を受けたモルモン教徒たちが、凍ったミシシッピ河を渡ってイリノイ州に逃げてきたのが1839年春。リンカーンが第8巡回裁判所の判事も引き受けたころである。

 

イリノイにやってきたモルモン教会は、州議会に、自治権をもった町造りの「特許状」を申請、1840年12月、申請は認められ、都市国家ナウブーの町が作られることになった。が、問題があった。州は、ナウブーの市長スミスに、武装した自警団を編成する権限、つまり軍隊を持つ権利を与えたのである。信者は増え、治外法権的な町は大きくなり、スミスは専制政治を敷いた。なぜそのようなことが可能だったのか。

 

 1839年、教会がイリノイに逃げ込んできたときに、民主党だったミズーリ州のボッグ知事、それから民主党全般を公に非難する人物が教会にいたのである。非難されて、当時イリノイ政界を支配していた民主党は動揺、懐柔策に出た。スミスのほうも、居住区ごとに集団投票する信徒の票をえさに、モルモン信徒の票をせがむホイッグ党と民主党を操ったのだった。1840年と41年の選挙には教会はホイッグ党を支持、クレーと争ったヘンリー・ハリソンに投票したが、1842年の州知事選挙では民主党支持に回った。1840年に州最高裁判事に就任したダグラスを抱きこんでいたのである。1842年ナウブーで、ダグラスは2000人のモルモン自警軍のパレードを見学して大満足、自分が判事をしていた第5巡回裁判所の管轄地に、わざわざナウブーを選んで含めることもしている。

 

 モルモンコミュニティがますます大きくなり、近隣住民の非モルモンたちと争いの絶えなかった教会とスミスのこと、1842年12月には、フォード知事の命令で、スミスがスプリングフィールドにまで連れてこられたこともあった。スミスを解放するため、人身保護令が出され、公聴会が州議事堂内の連邦裁判所で開かれることになった。多くの町の人たちが傍聴に訪れ、スミスは、弁護士ジャスティン・バターフィールドともに、12人の使徒を連れてたので、傍聴会はますます絵で出てくるようなシーンとなったとか。傍聴人の中には、リンカーンの妻メアリもいたが、あまりにも人が多くなって、裁判官の隣にまで座ることになったとか。弁護士のバターフィールドは、金色のボタンつき青いドレスコートを着て、威厳をもって立ちあがり、裁判官の周りの美しい女たちを見回し、めでてから演説を始めたとか。

 

 スミスは無事にナウブーに戻ったが、以後教会は、支持政党を明確にすることはなくなった。1843年の選挙では、ホイッグ党への投票を示唆してみたり、一方で民主党だと言い逃れをしながら、当時すでに連邦下院議員になっていたダグラスと食事をともにし、教会をうとんじるようなことがあれば、この国は消えるだろう、ダグラスがスミスを裏切ったら、災いが彼の上にふりかかるだろうと警告したりもし、「神の力」で政界をで支配しようするモルモンの政治力は州、国政レベルでも認識されるようになっていた。

 

 そして1844年2月、リンカーンが信奉するヘンリー・クレーがホイッグ党の指名を勝ち取った大統領選に、スミスが"神民政治"の綱領をかかげて出馬を表明、神の国を創ると宣言した。5月にはナウブーで開かれた大会で正式に指名され、信者たちは各地を訪れ、選挙運動を展開したものの、ナウブーの自治は政教分離というアメリカ憲法に反すると、近隣住民のモルモン教会に対する反感と危機感が爆発、スミスは、ナウブーの近く、カーセージの町の牢屋で暴徒によって殺されてしまった。大統領選出馬表明からわずか4ヶ月後のことである。

 

 この時代、リンカーンは1842年に8年務めた下院議員の職を辞して結婚、43年には連邦下院議員を狙って、ホイッグ党の指名をめざしたが失敗、44年にはヘンリー・クレーの選挙戦を応援しながら、家を買っている。スミスの公聴会を見に行った妻メアリがリンカーンに何を報告し、リンカーンがどう答え、モルモン教会やスミスをどう見ていたかは定かではない。