「リンカーンの国から」

 

(23) 連邦下院議員時代

 

 

メアリ・トッドとデートを再開、あわただしく結婚した1842年の夏、リンカーンはもう州議会議員に立候補しようとはしなかった。8年連続してやって、もう十分と思ったのだろう。代わりに連邦議会を狙っていた。1843年は、ホイッグ党の指名を得られなかったが、1846年5月、ピータースバーグで開かれた党の地区大会で、拍手喝さいで候補に指名された。その秋、長年の宿敵、民主党候補ピーター・カートライトを大きく引き離し、前例のない1511票を獲得して、連邦下院議員のポストを手に入れた。イリノイ選出議員7人のうち、リンカーンは唯一のホイッグ党員だった。当時、州議会が連邦議員を選んでいたのである。

 

 選挙が終わると、ホイッグ党から渡された200ドルの選挙資金のうち、リンカーンは199ドル25セントを党に返したとか。75セントは、運動を手伝ってくれた農夫たちにサイダーを一樽買うのに使ったそうな。律儀で、まじめなリンカーンである。1846年は、3月に2人目の息子エドワードが生まれた年でもあった。ついていた年だった。

 1847年10月、スプリングフィールドの家を貸し出して、リンカーンは、妻と息子たちといっしょにワシントンDCに移る。第30回連邦議会は12月6日に始まった。

 

 当時のワシントンDCは、人口40000人ほどの汚い町だった。奴隷売買の中心地でもあり、鎖につながれた奴隷たちが通りを行き交った。議事堂前の大きなペンシルバ二ア通りでは、酒場やギャンブル、売春宿が軒を並べていた。メアリは、教育上よろしくない、とでも思ったのだろうか、最初の3ヶ月がすぎると、息子たちといっしょにケンタッキー州レキシントンの実家に帰ってしまい、リンカーンの2年間の任期中ずっとそこで過ごした。翌年の夏、一度はリンカーンに合流しようと考えたが、「メアリは洗練されていない」という東部での評判を非常に気にしたとか。イリノイは今もって「田舎っText Box:  ぺ」という感があるのは否めない。

 "単身赴任"となったリンカーン。国政と直接に向き合うことになったのははじめてではなかったか。

 

 当時の国政を揺るがしていたのが、1846年から始まっていたテキサスをめぐるメキシコとの戦争である。

 テキサスは、メキシコがスペインから独立した1821年から、1836年にテキサスがメキシコから独立宣言をしてテキサス共和国を作るまでメキシコ領土だった。メキシコ人の植民者が少ないので、メキシコ政府はアメリカからの植民者を受け入れていた。1830年代、中央集権政府を作ろうとしたメキシコ政府に対し、いくつかの州が抵抗した。その中のひとつがテキサスである。とりわけ1829年にメキシコ政府が奴隷制を廃止、植民者から"銃狩り"、政治的・経済的なコントロールに加えて、カソリック教徒になることが期待されるとなると、プロテスタントのアメリカ人植民者は不満を募らせ、革命と呼ばれる暴力・抵抗事件をおこしはじめた。が、スペインからの独立戦争で消耗し、事実上破綻していた新しいメキシコ政府に、遠隔の北部州テキサスを治めきる力はなかった。

 

 1835年12月20日、テキサス独立宣言、1836年3月2日テキサス共和国誕生、4日後に起きたのが、2週間に及ぶ有名な「アラモの戦い」である。が、このテキサス共和国をメキシコ政府は認めようとはしなかった。単なる"反逆州"にすぎなかった。一方、テキサス共和国はその後の10年間に英国やアメリカと外交関係を結び、テキサス人の大半はアメリカへの併合に賛成していた。が、奴隷制反対の北部人は、また新しく奴隷州を認めることは、国政のバランスをくずすとして、併合を約10年遅らせた。

 

 1845年2月28日、アメリカ連邦議会は、テキサス共和国をアメリカの第28番目の州として併合する法案を通し、3月1日、ポーク大統領は法案に署名した。1845年12月29日に併合実施、共和国の負債は連邦政府が肩代わりすることになった。

 これに対して、テキサス共和国の存在すら認めていなかったメキシコ政府は併合を内政干渉だと非難した。1846年、ポーク大統領は、メキシコシティに外交官を送りこみ、メキシコ領土であるカリフォルニアとニューメキシコを"購入"しようとする。アメリカの領土拡大主義者たちは、カリフォルニアを手に入れて、オレゴンをもっていた英国を押さえ、かつ太平洋に港をもって、アジアとの貿易に乗り出したかったのである。ポーク大統領は、メキシコがスペインとの独立戦争でアメリカ市民に負わせた450万ドルの負債を帳消しにし、かつ2つの領土を2500から3000万ドルで買うと提案した。が、メキシコでは国粋主義が台頭、アメリカとの交渉には応じようとはしなかった。

 

 まもなくリオ・グランデ河と150マイル北のヌエセス川をめぐって、国境線問題が浮上する。1846年、ポーク大統領はザッカリー・テイラー将軍をリオ・グランデに送り、テキサスを守れと指示、将軍はリオグランデに砦を作りはじめた。怒ったメキシコは4月24日、騎兵隊をテキサスへ。5月、砦攻撃。今度はテイラー将軍が軍を率いて砦奪還へ。1846年5月13日アメリカ宣戦布告、で、戦争が正式に始まった。

 

 リンカーン自身は、メキシコに同情していたというわけではなく、戦争自体は不可避と理解していた。ただ民主党大統領ジェームズ・ポークが戦争を煽ったのではないか、それは憲法違反だと見ていた。リンカーンはすでに奴隷州だったテキサス併合にも無関心だった。しかし、メキシコから手に入れるだろう新しい土地に奴隷制を導入することには断固反対した。この時のリンカーンは、民主党の下院議員、デビッド・ウィルモットが1846年に議会に提出した、戦争で獲得する新領土には奴隷制を禁止するという「ウィルモット但し書き」を支持していた。「ウィルモット但し書き」は、1846年と47年に下院は通過したが、上院では決して通らなかったものである。

 

 テキサス合併をめぐる戦争の是非は、メキシコにとっては国家の誇りをかけた戦争だったが、アメリカ国内では奴隷制問題、つまり経済問題と密着していた。多くの北部の奴隷制廃止論者たちは、戦争は南部の奴隷所有主が奴隷制を拡大し、国政に影響を与えようとする試みだと非難した。リンカーンが信奉するヘンリー・クレーも、テキサス併合は奴隷制問題を再燃させ、メキシコとの戦争を誘発するからと反対した人物である。そのヘンリー・クレーを1844年の大統領選で破って大統領になった人物がポーク大統領だった。リンカーンはなんとかして「親分の仇討ち」でもしたかったのではないだろうか。 

 

 戦争終了の1ヶ月前、ポーク大統領は下院でテイラー将軍をたたえる法案を通そうとした。そこに、議員になったばかりのリンカーンが登場、新米議員で議会で力をもてるはずがなかったが、気負っていたのか、1848年1月22日の下院で、戦争は不必要で憲法違反、「大統領が軍事的栄光を求めて、戦争を煽っただけだ」と大統領批判、戦争開始を正当化する根拠を求めた。大統領がアメリカの土地でアメリカ市民が攻撃されたからと釈明すると、「show me the spot 」―アメリカ人の血が流された地点を明確に示せ、そこはテキサスの土地だったのか、そこに住む人間はアメリカに忠誠を誓っていたのか、それともテキサスに忠誠だったのか、選挙権を行使したことがあるのかと厳しく詰め寄ったが、その発言がかなり過激だと評判を落としてしまった。

 

  God of Heaven has forgotten to defend the weak and innocent, and permitted the strong band of murderers and demons from hell to kill men, women and children and lay waste and pillage the land of the just.

  ふ〜〜〜ん、教会には通わなかったリンカーンさんのこと、神やら悪魔やら地獄やらといった言葉を使っても、しょせんレトリックにすぎなかったろう。使うことでかえって、現代にあっても「悪の枢軸」といった言葉や先制攻撃を歓迎する"敬虔なる民"を刺激してしまったのかも。。まあ、新米議員としては「よし、やったるぞ」と気負ってたかも知れないし、議会の重鎮たちは、「ふん、新米議員のくせに、何を生意気な」ぐらいだっただろう。この時すでに2期目にはいっていた連邦下院議員、イリノイ選出の民主党大物議員スティーブン・ダグラスも、「リンカーン、ひっこめ」ぐらい、野次を飛ばしたかも知れない。

 

  リンカーンの批判により、戦争開始の状況については議会が綿密な調査をすることにはなったものの、民主党は圧倒的に戦争支持、ホイッグ党はリンカーンの批判を支持して、憲法は一人の人間に戦争を開始する権限を与えていない、ポークの行為は憲法違反だと主張した。が、それでも当初は67人いた、戦争は不当とするホイッグ党員のうち、最後まで反対を通したのはリンカーンも含む14人だった。結局、神の意思だとされた「アメリカの明白なる運命」−太平洋まで領土を広げる運命をもっているーに逆らうことはできなかったのだった。

 

 ワシントンの人間たちは、リンカーンのことを完全に無視した。ところが、リンカーンの選挙区ーつまりイリノイは戦争を賛美する声が強く、民主党は一斉にリンカーンを攻撃した。さぞダグラスの声は、つるの一声に響いたに違いない。リンカーンの戦争批判は取り返しのつかないダメージとなり、落胆したリンカーンは連邦議員再選を断念せねばならなくなった。

 

 1848年2月2日のグアダラルペ・ヒダルゴ条約で戦争終結。13000人のアメリカ兵が死んだが、戦闘で死んだのは1700人ぐらいで、90パーセントは病気だったとか。アメリカはテキサス、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、コロラドの一部、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミングという広大な土地を手に入れた。25000人の死者を出して、領土の約半分を失ったメキシコは、1825万ドルを受け取った。そして、カリフォルニアの住民約1000人、ニューメキシコの住民7000人の大半がアメリカ市民となった。

 

 この1848年は再び選挙の年だったが、政治世界の不可解さというか、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはならない政治のむずかしさ、それともいい加減さ、いや面白さというか、「まあ、政治なんて、こんなものなんだろう」と納得せざるを得ないのは、戦争を批判したホイッグ党が、大統領候補指名に、テキサス併合は戦争を呼び込むからと反対した、先見の明のあるヘンリー・クレーではなく、なんと戦争のヒーロー、テイラー将軍を指名したことである。戦争そのものは憲法違反と非難しながらも、テイラーの軍事的手柄は賞賛するという二枚舌ぶりである。なんということか。リンカーンの親分さん、筋を通したゆえに、大統領とはとうとう縁なく終わってしまった。

Text Box:   ほぞを噛む思いをしたのは子分のリンカーンも同じではなかったか。いやリンカーンなら、「こんなものさ」と案外平気で、にこにこしていたのかも知れぬ。6月、テイラー将軍を大統領候補に指名するホイッグ党全国大会(フィラデルフィア)に出席、秋9月には家族とともに、ニューイングランドを10日間、テイラー将軍を応援して遊説で回っている。

 

 1849年、無事に大統領に選ばれたテイラーは、「ごくろうさん」と言わんばかりに、リンカーンに、遠いオレゴンテリトリーの知事職をオファーした。現代のアイダホ、オレゴン、ワシントン、モンタナからワイオミング一部を含む広大な地域である。が、リンカーンはオファーを断り、1期2年をワシントンDCで過ごしただけで、1849年春、イリノイはスプリングフィールドの古巣に戻ってきた。その後は政界から離れ、弁護士業にせっせと精を出しはじめた。

 

  このメキシコとの戦争は、アメリカ人の信念、"明白なる運命"によって突き動かされ、かつその信念を確固としたものとした。が、奴隷制をめぐる南部と北部の亀裂は大きくなり、亀裂は水面下で南北戦争につながっていく。この国家の力づくの膨張拡大に潜む内的な力が国を引き裂こうとしているのを、りンカーンは予感、危惧していた。

 

 1848年の独立記念日、連邦議会の前で、ワシントンモニュメントの建設工事がはじまった。だんだん大きくなっていくモニュメントの姿は、リンカーンの目には国のそれにだぶって見え、次のような言葉を残している。

 「我々はあまりにも早く退化、堕落の道を進んでいるように私には思われる。この国が始まったとき、すべての人間は平等だと考えたのではなかったのか。今では、黒人、外国人、カソリック以外の人間は平等だ、を意味している。もう私は、どこかよその国へ移りたくなってきた。自由を愛する振りなどせずに、偽善なく純粋に専制政治が幅を利かせている国へ。」

 

 大混乱の時代が目前に迫ってきていた。