リンカーンの国から

 

(50) 1860年―大統領選挙の年

 

Text Box:  1860年2月27日、リンカーンは北東部で初めて大きな政治集会に出て、スピーチをした。ニューヨークシティのクーパーユニオンでの演説である。この演説は、リンカーンに大統領への道を開く非常に重要なものとなったが、ほとんど知られていない。ダグラスとのディベートのおかげで、この頃には、全米でよく知られるようになっていたリンカーン。リンカーン自身、この演説会が分岐点になるだろうという感触があって、準備にかなりの時間を費やしたらしい。スーツを新調すらしたそうな。かなり気合が入っていたね、リンカーンさん。(笑)

 

クーパーユニオンでの演説は、奴隷制に関するリンカーンの自論にさらに磨きをかけたものだった。まず、準州での奴隷制問題を国を創った人々がどのように考え、法的にはどのような立場に立っていたかを説いた。「我々が住む政府の枠組みとは何か、それは憲法である」憲法の解釈を通して、なぜ準州において連邦政府が奴隷制を規制できるのか、とりわけ国を創った人たちの性格やら考え方を分析、かれらは西部の新領土への奴隷制の拡大を望んでいなかったと主張した。次に、共和党は北部だけを代表していると非難する南部州の有権者に向けて、共和党と民主党の違いを明確にし、奴隷制に対する共和党の立場はむしろ保守的だ、南部は偏狭だと訴えた。「自分たちが好きな憲法じゃないといやだというのなら、それは政府を破壊しようとすることだ、もし共和党の大統領が選ばれたら、連邦から脱退すると主張するのは、銃で人を脅しながら、盗みを働いているようなものだ、連邦を破壊すると脅すのは、泥棒と変わりはない」。やっぱりここまで言われると、怒るよな。。(笑)北部でもヨーロッパからの移民が急速に増えてきて、連邦政府に対する自分たち南部の影響力がだんだん小さくなってきていることに奴隷制賛成論者も気づき、苛立ちを深めていたのに、泥棒呼ばわりされたらね。。(笑)そして最後に、共和党に向けては、一致団結を呼びかけた。「冷静になり、行動を慎もう。熱情にかられ、短気を起こして、事を始めてはならない。これまで南部を説得しようとしてきたが、できなかった。彼らが聞きたいのは、ただ奴隷制が正しいという言葉であり、逃亡奴隷法と奴隷制の拡大を支持することだ。もしわれわれが奴隷制を廃止できないのなら、投票によって、少なくともその拡大を阻止しよう。どんなはったりで非難され、脅かされようとも怖がることはない。正義は力であり、心から自分を信じて、我々が果たすべき義務を果たすだけである。」

 

会場を埋めつくしたニューヨーカーたちは、リンカーンの演説を聞いていると、背筋がぞくぞくしたという。リンカーンが決して西部の田舎者ではなく、アメリカのリーダーとしての資格が十分にあることはもう誰の目にも明らかだった。リンカーンが演説を終えると、ものすごい拍手と歓声が巻き起こった。翌日、ニューヨークトリビューン紙は、東部で演説するのは初めてという人間の中で、これほどまで力強く、明確で、印象深い演説をした人間はいないと報じた。

 

翌2月28日から、リンカーンはニューイングランドをめぐる2週間の遊説旅行に出かけ、11回の演説をこなした。ニューハンプシャーでは、phillips exeter academyに通っていた長男のロバートに会っている。3月6日、コネチカット州ニューヘーブンでも、奴隷制についてのスピーチをした。

 

4月に入ると、サウスカロライナ州チャールストンで、民主党全国大会が開かれた。が、党は深く二分されていた。南部民主党と北部民主党は、党の綱領と候補者選出をめぐって合意に達することができなかった。スティーブン・ダグラスは北部民主党に支持されたが、深南部の民主党からは支持を得られなかった。リンカーンとのディベートで、準州政府は住民投票で奴隷制を廃止できるという「フリーポートドクトリン」を持ち出したからである。ダグラスを許すことができず、支援を拒否、怒った南部民主党員たちが会議場を退出したため、スティーブン・ダグラスは、党の推薦を確実にする3分の2の票を獲得できなかった。党幹部たちは大会をいったん中止した。

 

大統領候補選出をめぐって、民主党がもめていると、5月9日、共和党全国大会のちょうど1週間前に、constitutional union partyがメアリーランド州ボルチモアで大会を開いた。この党は、年のはじめにできた新党で、奴隷制問題で国が二分することを避けたいと考える、保守派の旧ホイッグ党の人々が作ったものである。奴隷制の是非やらその拡大について明白な立場をとらないことで、奴隷制問題からは距離をおけると考え、民主党にも共和党にも組したくなかった人たちである。カソリックのアイルランド人移民を嫌い、移民を制限しようとした「know-nothings」に似た考えをもっていた。ケンタッキー選出の上院議員で、ヘンリー・クレーの後継者であるジョン・クリッテンデンが、1859年12月、保守的で妥協派の元ホイッグ党議員50人を集めて集会をもったのが始まりである。大会では、テネシー州出身のジョン・ベルを大統領候補に、マサチューセッツ州のエドワード・エベレットを副大統領候補に選んだ。

 

Text Box:  同じころの1860年5月9日から10日の二日間、イリノイ州共和党大会がイリノイ中部ディケーターで開かれた。全国大会に送る代議員を選び、リンカーンを大統領候補にすることを決定した。5月18日、シカゴで開かれた共和党全国大会で、一番有力な大統領候補は、ウィリアム・ソワードだった。が、ソワードは、前回の1856年の選挙で共和党が負けた、ペンシルバニア、インディアナ、イリノイ、ニュージャージーの4つの州で資質を問われ、代議員を獲得できなかった。その結果、第2位だったリンカーンが、大統領候補に選ばれた。副大統領候補は、過激派共和党員のメーン州のハンニバル・ハムリンである。リンカーンは全国大会に出席せず、州都スプリングフィールドに残っていたそうだが、どんな気持ちで指名を聞いたのだろうか。といっても、電話もテレビもなかった時代、リンカーンがそのニュースを聞いたのはいつだったのだろうか。モールス信号が実用化され、史上初めてワシントンとボルチモアの間で、長距離電信の実験が行われたのが1844年。以後鉄道の発展とともに、鉄路に沿って電信柱が建てられ、電信線が延びていったというから、ということはリンカーンさん、5月10日は一日中、スプリングフィールドの駅で、モールス信号を打つ駅員のそばに張りついていたのかも。。。(笑)

 

民主党のごたごたを見て、自分たちが勝つだろうと踏んだ共和党がはやばやとリンカーンを選出する一方、民主党は6月にもう一度ボルチモアで全国大会を開いて、今度はダグラスを指名した。南部民主党員で、前回のチャールストンで席を立った人間は投票することができなかったのである。それで、ダグラス指名が可能になったのだろう。南部民主党は、党の分裂を避けるためにと、ダグラスが身をひくことを期待したが、もちろんダグラスがそんなことをするはずがない。そこで、かれらは別の大会を開き、ケンタッキー選出のジョン・ブレッキンリッジを大統領候補に指名した。この指名は、のちにバージニア州リッチモンドで開かれた別の南部民主党大会で承認されている。

 

7月になると、リンカーンの長男ロバートがハーバード大学に入学。リンカーンが鼻たかだかだったかどうかは不明。(笑)大統領選挙まで1ヶ月を切った10月19日、ニューヨーク州ウエストフィールドに住む11歳の少女、グレース・べデルから、ひげを伸ばしたらどうか、という提案をリンカーンは受けとった。「あなたのお顔はあまりに痩せているので、ひげを生やしたほうがずっと良くなると思います」というファン・レターだった。リンカーン答えて曰く、As to the whiskers, having never worn any, do you not think people would call it a piece of silly affection if I were to begin it now?" 選挙運動中ではやっぱり、ひげ一つにでも、有権者にどう思われるか、気を使わねばならないんだろうなあ。ああ、めんどくさい。(笑)でも、自分のひげにまで心をかけてくれた少女にいたく感激したのだろうか。以後、リンカーンはひげを伸ばし始める。うるさい妻メアリは嫉妬しなかったのだろうか。(笑)

 

11月6日、投票日である。共和党リンカーン、北部民主党ダグラス、南部民主党ブレッキンリッジ、そしてconstitutional unionのベルという4つ巴である。でもまあ、分裂した民主党ではなあ。。。ふたをあけてみると。。一般投票は、リンカーンが18の自由州で1866462票、40パーセントを確保、第二位はダグラスで1375157票、第3位はブレッキンリッジで847953票、そしてジョンベルが589581票だった。が、獲得した選挙人は、リンカーンが選挙人303のうち180で、過半数を確保、第二位は南部民主党のブレッキンリッジで奴隷州13から72、3位はなんと新党のベルで3つの奴隷州(バージニア、ケンタッキー、テネシー)から39、そしてびりが老練大物政治家のダグラスで、わずか奴隷州ミズーリとニュージャージーからだけの12である。ああ、かわいそう。。。(笑)ニュージャージーでは、選挙人7人のうち、4人がリンカーンに、3人がダグラスに入れている。ふ〜〜〜ん。

 

リンカーンが、共和党初の第16代大統領に選出されるやいなや、1860年12月20日、サウスカロライナが連邦から脱退、それから2ケ月のうちに、ミシシッピ、フロリダ、アラバマ、ジョージア、ルイジアナ、テキサスと南部諸州が連邦から離脱、「南部連合」が結成された。いよいよアメリカは南北戦争の時代に突入する。

 

選挙で大敗して、きっとメンツ丸つぶれになってしまっただろうダグラスさん。それでも、政治家としてのプライドを必死でかきたてたのではあるまいか。今度はリンカーン支持に回り、南部州の脱退を批難したが、戦争を避けることはできなかった。ダグラスは、翌1861年6月3日、シカゴで突然倒れ、死亡。わずか48歳だった。

そんなものだよね、ダグラスさん。盛者必衰、諸行無常なんですよ。そして、そのことを一番想ったのは、リンカーンだったかも。若き日、政治家をめざしてイリノイ州の下院議員に当選した頃からの好敵手、ダグラス死亡を聞いたその日、大統領リンカーンはすべての政府機関を休みにし、その日はもう誰とも会おうともしなかったという。