リンカーンの国から

 

(52)1861年春―大統領就任式

 

 

1861年3月4日、大統領就任式の日の朝、リンカーンは泊まっていたウィラードホテルのスィートルームで目をさました。心配で疲れ切っていた。自分の命が狙われていることはもう明らかだった。分離派たちがすでにリンカーンの首に報奨金をかけていたのである。

新しいスーツを着て、トレードマークのストーブパイプハットをかぶり、皮のブーツをはいて、金の飾りがついたつえを持って、リンカーンがいよいよホテルの部屋を出るとき、「いざ出陣」と気合を入れただろうなあ。。(笑)12時にホテルのロビーで、現大統領(民主党)ジェームス・ブキャナンと待ち合わせである。ブキャナン大統領は、次期大統領をエスコートして、就任演説に連れていくことになっていた。

リンカーンがロビーに下りていくと、数分前にホテルに到着していたブキャナンが待っていた。

 

Text Box:  二人の男は感じよく挨拶を交わし、外で待っているオープン馬車に乗り、議事堂のあるペンシルバニア・アベニューに向かった。その日、ワシントンは、イリノイ州スプリングフィールドでの賑やかなお別れとは際立った対比を見せていた。スプリングフィールドからワシントンまで1900マイルの、12日間の旅のあいだに、何千人もの人々と握手を交わし、リンカーンの右手はほとんど麻痺したみたいなっていたが、その手の痛みが喜びのシンボルであったことを思えば、ワシントンの光景は憂鬱なものだった。リンカーンは、なにやら自分が敵地にはいりこんだような気がしていたに違いない。町はまったく飾り気がなく、異様に静かで、そのくせ緊張していた。ワシントンの人間は、大半が南部と分離派に加勢、新しい大統領を支持していなかったのである。

 

議事堂までの道には、武器をもった警備兵が並び、兵士が交差点のいくつかを封鎖していた。屋根の上にはライフルをもった男たちがリンカーンの通る道とまだできあがっていない議事堂のロタンダの周りを見張っていた。近くの丘の上には、大砲がおいてあり、どんな緊急事態にでも対応できるようになっていた。すべては議事堂と新しい大統領を守っていたのだが、今までに大統領就任演説でこんな安全対策がとられたことは一度もなかった。ジョン・F・ケネディ大統領のことを思うと、よくもまあ「オープン馬車」でやってきたよね、とは思うが、リンカーンの時代はもうちょっとのんびりしていたのだろう。(笑)

就任演説にやってきたのは、北部からのリンカーン支持者たちである。ハーバード大学の学生だった長男ロバートも、大学の休みを利用して、父親の一世一代の晴れ姿を見守った。イリノイ出身の政敵スティーブン・ダグラスもそばにやってきて、祝いの言葉を贈った。

 

曇り空からやっと太陽が顔をのぞかせたとき、リンカーンは議事堂の演台に立ち、帽子からメモを取り出し、やっと落ち着いた気分で群衆を見回した。そばに座ったスティ−ブン・ダグラスがリンカーンの帽子を預かった。リンカーンはポケットからスティール枠のめがねを取り出し、演説を始めた。

In your hands, my dissatisfied fellow countrymen, and not in mine, is the momentous issue of civil war.  The government will not assail you.  You can have no conflict, without being yourselves the aggressors.  You have no oath registered in Heaven to destroy the government, while I shall have the most solemn one to 'preserve, protect, and defend'it" 

"no interfere with the institution of slavery in the states where it exists.  I believe I have no lawful right to do so, and I have no inclination to do so.   The government will not assail you.  You can have no conflict without yourselves being the agressors. 

 

リンカーンは、奴隷制よりは連邦維持が最優先だと南部に訴えた。そして、「内戦になるのかどうかという重大な決定は、不満を抱く同胞のみなさんの手に中にあるのです。私の手のなかではありません。連邦政府があなたがたを攻撃することはないでしょう」(内田義雄「戦争指揮官リンカーン」49ページ)とも。演説が終わるまでに、どんなことがあっても国を守ると、強く心に決めていた。演説を終え、宣誓を行って、リンカーンは第16代の大統領となった。が、演説中にも、サウスカロライナのサムター砦では、大変なことが起こっていた。その夜リンカーンは、就任舞踏会を楽しみ、真夜中過ぎにホワイトハウスに帰ってきた。妻メアリにとっては、買い込んだ豪華なドレスを披露する人生最高の時間だったに違いない。

 

最高の気分で、ホワイトハウスの住人になったその夜に、リンカーンが聞いたのは、南部連合の軍がチャールストン港の真ん中にある小さな島にある砦を包囲したというニュースである。小さな島へは、物資の補給はできない、ワシントンからの支援なしでは、砦の中の北軍は2ケ月もたたずして、物資がなくなるだろう。。。それから、リンカーンの眠られぬ夜がはじまった。

その後、数週間のあいだ、サムター砦の物資は少なくなっていたが、リンカーン新政権はどうしたらいいかわからず、いろいろなアドバイスが飛び交った。中には「もうあきらめろ」という側近もいれば、援護軍を送って、南部と戦えという側近もいる、単に食料と物資を送れとの声もあった。リンカーンが最終的におろした決断は、武装した援護軍は送り、物資の補給はするが、相手が発砲しない限り、絶対に敵とは交わらないという、就任演説と踏襲する厳しい命令だった。戦争は不可避かも知れないが、北部が最初に発砲はしない、という判断である。先制攻撃でイラク戦争をはじめたブッシュ前大統領は、このリンカーンの判断をどう考えるだろうか。(笑)

 

これで、新大統領リンカーンの50ケ月にわたる仕事が決まった。リンカーンは決してみんなに好かれていたというわけではなかった。田舎の弁護士あがりで、服装はぶざまだし、その土臭いユーモアのセンスは、東部の人々にいやあな印象を与えていた。もちろん民主党新聞は、リンカーンの漫画を載せ、道化師として描き、彼の決断をこっぴどく批判、冗談を馬鹿にした。共和党は一貫してリンカーンを支持したものの、新聞報道の正確さについては頓着しなかった。イリノイでは正直者で知られたリンカーンの人生は、国政トップの座にあってはまったく寂しいものとなった。後のことではあるが、リンカーンが殺されたとき、服の胸のポケットに、自分のことをほめた新聞記事が8つ残されていた、というのは、リンカーンの孤独を物語っているといえよう。批判の声に四六時中さらされる中で、自分を励ましてくれる声を大事に大事にしていたのである。売れないライターでも、その気持ちは十二分に理解できる。アメリカ大統領ともなると。。。まあ、普通の神経の人では、大統領にはなれないね。。なる人、なりたい人の気が知れない。。(笑)