リンカーンの国から

 

(29)オーウェン・ラブジョイ

 

リンカーンが政界に復帰した1854年に、リンカーンと知り合った人物がいる。オーウェン・ラブジョイである。1837年、南部アルトンで暴徒によって撃ち殺された奴隷制反対論者の新聞発行人イライジャ・ラブジョイの弟である。

 

あの夜、9才年下の弟オーウェンは、もう一人の弟ジョンとともに、兄の家で、兄の帰りを待っていた。翌朝、馬だけが帰ってきたので、異変に気づいたという。その後、兄の遺体は友人たちの手で家に運ばれてきた。

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イリノイ州西部、人口7600人の町プリンストンに、そのオーウェン・ラブジョイの家がある。兄が暴徒に殺された翌年の1838年、オーウェン・ラブジョイは教会の牧師として町にやってきた。殺された兄のイライジャのよき理解者、エドワード・ビーチャーが推薦したのである。さぞ心の中は激しい怒りと信念が渦巻いていたに違いない。オーウェンを紹介する資料には、「燃え立つような奴隷制廃止論者」とある。兄の葬儀の際には、「兄の思いが血塗られた運動を決して見捨てはしない」と誓っている。

 もともと兄のイライジャは、奴隷制は罪だ、と妥協なしに反対はしたが、ウイリアム・ロイド・ギャリソンのような急進的な奴隷廃止論者ではなかった。そして弟オーウェンには、私はあなたのような廃止論者ではない、と手紙に書き送っていた。当初は穏健派だった兄を殺されて、弟オーウェンの心中いかばかりだったかは想像にあまりある。

 

オーウェンは、1811年、牧師の息子の一人としてメーン州で生まれ、大学で法律をかじった。父親を亡くしたあと、神学校に入り直したが中退、それでも牧師になろうと決意して、兄のいるアルトンにやってきたのが1836年。その翌年に兄を殺されて、プリンストンに移り住んだが、そこで同じ1838年にマサチューセッツから移ってきたバトラー・デンハム夫婦の家に下宿、1841年にバトラーが病死すると、一周忌が終わったころに、3人の子供を抱えていた未亡人ユニスと結婚、自分の子供を6人もうけ、合わせて9人の子供の父親となった。下宿先から婚家となった家が、今日「ラブジョイ・ホームステッド」と名付けられて公開されている。イリノイでも重要な「アンダーグラウンド・レールロード」の""だったからである。実際に町に鉄道が来たのは1854年。現在もアムトラックの駅がある。

 

巧みな弁舌家だった牧師オーウェンの奴隷制反対・廃止の説教は、町で物議をかもした。通りに出てくるな、撃つぞ、といった脅しや、女たちの中には、みんながオーウエンの身体にタールを塗り付け、鳥の羽をべったり張って担ぎまわる私刑をするなら、自分のベッドから羽を提供すると申し出るものがいるぐらい、反オーウェンの声は激しかった。私刑の脅しを受けたオーウェンは、自分の馬の中で一番強い馬に乗り、後脚で立たせて、1時間ものあいだ町を乗り回し、つかまえられるものならつかまえてみろ、と叫んだという。誰も後を追おうとはしなかった。

 イリノイ州法では、個人の所有物ーつまり奴隷ーを隠すことは軽罪とされていた。1840年代のプリンストンは、州の"ニガー・スティーリング・センター"と呼ばれるほど、多くの奴隷たちがプリンストンを経て逃亡を試みたとか。1843年には、オーウェン自身が、反対派によって犯罪人として起訴されている。かつて法律をかじり、弁のたつオーウェンとシカゴの弁護士は、「所有主が自分の意思で奴隷を自由州に連れてきたときは、奴隷はそこで自然に自由となる」という陪審員の評決を引き出し、無罪釈放された。

 

奴隷問題とは、人権問題というより、経済問題や政治問題とのせめぎあいの感が強い。票集めとなると、強力なマシーンはやはり教会だろう。牧師はどの党に投票するか、教会員の"洗脳"に絶大な力を奮ったに違いない。

だからこそ、牧師オーウェンはリンカーンと対立した。

 

この時代は、1787年ごろから始まり1860年ごろまで続いた教会の第2信仰復興運動の時代である神の寵愛からほとんどの人間が除外されているという不安を煽られ、戒律の厳しいカルビニズムの奴隷となっていた白人たちが既成の宗教的権威から逃れようとする動きと、所有主を"だまそう"と宗教のアフリカ的要素に逃げ込んだ黒人奴隷たちの気持ちが一致、新しい宗教運動が盛んになっていた。奴隷制反対・廃止論もその中にくみこまれた。

 

1840年4月、奴隷制反対を前面に掲げた政党、リバティ党が作られた。急進過激派のウイリアム・ギャリソンは、政党を作る戦略などくだらない、と批判したが、奴隷が作った穀物や製品のボイコットを主張する奴隷制反対論者たちが、既存の政党にプレシャーをかけようとしたのである。1840年の大統領選では、党はジェームズ・バーニーを指名し、選挙に臨んだものの、7000票しか集められなかった。が、4年後には、62300票を集めるまでに運動は広がりを見せていた。

メキシコとの戦争が終わった1848年には、このリバティ党とホイッグ党が自由土地(フリーソイル)党を作った。メキシコから手にいれた新しい西部の領土に奴隷制を拡大することに反対、主要スローガンは、自由の土地、自由な言論、自由な労働、自由な人間だった。

 

リバテイー党に属していたオーウェンは、4回の挑戦のあと、1854年に州議員に選ばれ、当時再び政界入りしていた州下院議員のリンカーンと知り合った。が、リンカーンはオーウェンの奴隷制反対の考え方に同意せず、オーウェンと新しい急進派の政党を作ることを拒否。2年後の56年には、共和党の誕生に手を貸し、連邦下院議員となったオーウェンは急進派の先峰となり、まもなく最も過激な反奴隷制廃止論者として知られるようになっていく。共和党急進派とは、単に奴隷制廃止に賛成するというだけではなく、自由になった奴隷は白人と完全に対等でなければならないと、奴隷問題を人権問題として考えた人々のことである。

 

ところが、である。1860年にリンカーンが大統領候補に選出されると、なんとオーウェンは妥協の道を選んだ。リンカーンの穏健派の考え方を受け入れるように人々を説得、やがて「憲法で保障されているやり方のみで奴隷制に反対することに自分は満足している」と選挙民に告げ、リンカーンの勝利に向けて懸命にキャンペーンをしたというから驚きである。共和党の結束をはかったということだろうか。しょせん政治とは、そういうものなのだろう。

南北戦争の間に、急進派は連邦議会で力をもつようになり、メンバーの何人かは重要な委員会を任された。オーウェンも農業委員会の議長となった。そして急進派は大統領に、すぐに奴隷を解放せよ、黒人だけの部隊をつくるべきだと主張。が、リンカーンは北軍への黒人部隊導入を躊躇したため、急進派は「リンカーンは弱虫だ、神の力をもちながら、神のようにその力を使わない」と非難。が、オーウェンは、他の急進派ほどリンカーンを厳しく批判しようとはせず、1862年6月、「彼がたとえ私と同じスピードで車を運転しないとしても、彼はそのうちやるだろう。それは時間の問題だ」と、リンカーンへの信頼を表明した。

 

奴隷解放の予備宣言は62年9月、正式な奴隷解放宣言は翌63年1月に行われたが、実際のところ宣言によって奴隷が一人でも解放されたわけではない。希望に燃えた奴隷たちが北軍に加わることを計算した上で、戦局なかばで宣言したのだった。オーウェン自身は、65年4月の北軍の勝利ーつまり奴隷解放ーを目撃することなく、解放宣言から1年後の1864年3月、ニューヨークのブルックリンで病死した。エドワード・ビーチャーの弟、ヘンリー・ビーチャー牧師の家だった。

 

Text Box:  Text Box:  真っ白な壁で、かわいい感じの「ラブジョイ・ホームステッド」の家は、階上に6部屋、階下に9部屋もある。公開されていないが、地下室もある。家の中を見てまわりながら、まるで迷路みたい、と思わずつぶやいた私は、なぜオーウェンは路線変更したのだろうか、と考えていた。かつて「燃え立つような奴隷制廃止論者」と評された牧師だった人である。牧師から政治家に転向したことで、リンチで殺された兄を思う気持ち、激しい怒り、悔しさは、時間の経過とともに、若き日の熱情と名付けられ、やがて政治という""の駆け引きが牛耳る世界で"洗練"されていったのだろうか。リンカーンという、読みと計算にたけたしたたかな政治家の力に圧倒されたのだろうか。社会改革における宗教がもつ力の限界を悟ったのだろうか。

 

家のドアを入ったところに、二階に上がる階段がある。階段から見上げると、家の外壁にあたる部分が細長い部屋になっていた。隠れ部屋である。長さは約5フィート、天井は家の屋根の下になるのだろう、斜めになっていて、もちろん立つことはできない。ただ横たわるだけである。50ドルで雇われた奴隷狩りが、ばたばたとこの階段を上がってくるのを、奴隷たちは身を凍らせ、じっと息を殺して聞いていたに違いない。 当時、壁にはもちろん窓はなかったが、今は作られていた。隠れ部屋へのドアは、階段をのぼりきったところにある小部屋の壁がくりぬかれていた。その前に本棚が置かれ、ドアを隠していた。その本だなを見たとたん、「アンネの日記」を思いだした。本だなの向こうで無限に輝いている、人々が求めてやまぬ「自由」への思い。目を射るような輝きの強靭さは、たぶん日本人の理解を超えるだろう。

 

 かつて福沢諭吉は、libertyの翻訳語として、「自由」という言葉はよくない、と知りながら、結局その訳語を使ったとか(柳父章著「翻訳語成立事情」岩波親書185ページ)中国語本来の意味「勝手きまま、わがまま」と、明治以降付加された「人権」の意味とのあいだで漂う日本人。が、日本人の血と肉から生まれたわけではない翻訳語の運命として、「自由」は日本人の意識の中で永遠にはき違えられるに違いない。