イリノイこぼれ話

 

ジャーナリスト魂

 

 

Text Box:  20年以上前、記者という肩書きで新聞社で働いたことがあります。道ですれ違う見知らぬ人に声をかけるなんて、そんな恥ずかしいこと。。。なんて思ったのもつかのま、よほど性にあったのでしょうか、あれからずっと売れないライターを続けています。(笑)そのうち、「記者ゴロ」という言葉も納得できるようになりました。ゴロというのは、たぶんゴロツキの略でしょう。記者というのは、よほど自らを厳しく律しないと、一種の「たかり・脅し根性」すら首をもたげかねない仕事です。そのくらいマスコミ関係者には力が与えられています。「表現の自由」という民主主義の根幹と、一般人の「知る権利」に直結するメディアパスをこれみよがしに振りかざす、つまり権力の行使に慣れてしまうと、気づかぬうちに、傲慢が身体中からぷううんと臭う“いやあな人間”になりかねません。マスコミなんて、逃げるが勝ち、と私自身が思っていますが(笑)、いやあ、こんな時代もあったんだあ、と感心したのが、1917年、目賀田種太郎男爵がニューヨークで米政財界の要人数百人を招いて開いた、超豪華なディナーパーティでのメルビル・ストーンの演説を読んだときでした。マスコミ人間とジャーナリストの違いでしょうか。

 

メルビル・ストーンのことは、伊藤一男著「シカゴ日系百年史」の中で、1872年にシカゴにやってきた岩倉具視使節団に同行していた伊藤博文と面会した新聞記者として紹介しています。1905年の日露戦争後のポーツマス講和会議では、日本びいきの知日派として舞台裏で活躍したことは特筆される、と。(25ページ)

 

Text Box:  1848年、イリノイ中部ハドソン村生まれのメルビル・ストーンが、1セントの夕刊紙「シカゴ・デイリー・ニュース」を創刊したのが1875年のクリスマスの日。資金を提供したビクター・ローソンが、以後29年間社長を務め、ストーンは編集長に。1888年に「デイリー・ニュース」を離れたストーンは、1893年に、通信社Associated Press of Illinois の総支配人に。まもなくストーンはニューヨークに移り、1848年設立のAP通信は以後、ストーンの指導のもと、一流の通信社に成長していきました。

 

大西洋横断海底ケーブルが敷設され、欧米間で電信線による通信が始まったのが1866年。しばらくのあいだ、AP通信はイギリスのロイター通信からニュースを買っていました。ロイターの情報独占・操作は、「世界の出来事はすべてイギリス人の利害と感情のろ過を通していた」といわれるほどだったとか。司馬遼太郎によると、日露戦争では、ロイターがしつこく日本の勝利を報じたので、国際的な心理や世論が動かされたとのこと。日英同盟のおかげで、日本のイメージはかなり“バブル”だったのでは。。。(笑)

 

そんなロイターの世界支配にうんざりしたのでしょう。1898年、ローソンとストーンは、自分たちの“外信部”を作りました。ロンドン、パリ、ベルリンにおいた「デイリー・ニュース」支局から、エジプト、南アフリカ、日本に送ったAP通信員から、独自の記事が送られてくるようになりました。

1904年の日露戦争の緒戦、中国・遼東半島の旅順から、日本軍に囲まれた通信員が送ってきた記事は、必死で削って削って4385語、アメリカまで届くのに14時間かかったとか。一語送るのに36セント、記事のために、会社が電信会社に払った金額は1783ドルだったとか。すごいですねえ。無料で、腐るほど大量の情報が瞬時に供給される現代からは、その大変さは想像できません。

 

ポーツマスでは、戦争続行を望んだロシアと、戦争が続けられなくなっていた日本のあいだに立ち、ロシアから賠償金をとるのはあきらめた金子堅太郎男爵の要請を受けて、ロシア皇帝をなだめるよう、ドイツ皇帝に電報を打ったのがストーンです。すごい人脈ですねえ。「記者ゴロ」どころではありません(笑)。やはりそれは、有線・無線電信で初めて世界をつないだ当時のジャーナリズムに、20世紀という、それもヨーロッパの大国とアジアの小国の戦争で幕開けした新時代への使命感がみなぎっていたからではないでしょうか。

 

1909年、実業家、渋沢栄一が訪米して、「アメリカで見かける日本に関する記事は、質量とも貧弱、かつ悪意にみちた通信が多い」と嘆いた翌年3月、ストーンは「亜米利加合衆国特命全権大使 トーマス、ジェー、オブライエン」とともに来日、明治天皇にも謁見しました。渋沢栄一と意気投合したに違いないストーンは、「日本にはまだ新聞通信を公共の仕事、国家の仕事と考える理念がない。日本が列強に伍して、その独立をまっとうするために、まずその目となり、耳となり、口となるべき通信社を日本人の手によって作り、かつ運営しなければならない」という言葉を残しています。(片山正彦「通信社の役割」メディアと文化第2号 109ページ)

要するに、情報・宣伝活動は、世界で勝ち残るための戦略だ、ということでしょうか。その後、勝つつもりだった日本が1930年代に作った国策通信社は敗戦とともに解散し、それから六十年あまり、日本は、なんとか独立はまっとうしてきたけれど、なにやら今でもどこか「質量とも貧弱」感がありますけど。。(笑) 

 

第一次大戦中の目賀田男爵主催のパーティで、「日米関係を悪化させようとする意図でまきちらされる、あらぬ反日の噂は私が止めることをお約束します」と、マスコミの力を誇示したストーンは、伊藤博文や金子堅太郎との出会いに触れたあと、次のように続けています。「it is almost pathetic that this country (日本のことです)has been on her knee for the friendship of America.    (日本は)sending commission after commission to this country (アメリカのことです), and pleading with this country and telling this country We love you.  You brought us into the family of nationsand we have slapped them in the face.  Let us stop it.

 

Let us stop it- ストーンさん、恋心への容赦ない「平手打ち」はまだ続いてるのでは。北朝鮮の核問題と日本人拉致問題はどうなるのでしょうか。(笑)

 

Text Box:  ストーンは、1929年2月15日にニューヨークで死亡。葬儀には、フーバー大統領や日本の大使も出席しています。「記者ゴロ」じゃないです。(笑)

 

私が見たストーン直筆のメモのタイトルは、「日本に正義を」です。If there is any evidence that in the years since Commodore Perry forced an opening of Japan, she has been tricky or insincere, or has violated any of the accepted canons of our civilization, let us have some evidence

 

ペリー提督の黒船が日本に来たのは、ストーンさんが生まれてから5年後です。ストーンさんの人生と日本の国際舞台への登場・飛躍は共振したのかも。。売れないライターが今思うのは、ジャーナリズム魂の限界でしょうか。体制批判をする権力を与えられたジャーナリズムが、ミイラとりがミイラになって、戦略に飲み込まれてしまうとき、「記者ゴロ」がゴロゴロ。。(笑)「売れない」のは勲章かも???(笑)

 

シカゴ川をはさんで、オペラハウスの向かいに、立派な「シカゴ・デイリー・ニュース」のビルが、そして生まれ故郷のハドソン村には、ストーンを「アメリカジャーナリズムのGreat Genius」と称える碑が建っています。