イリノイこぼれ話

 

名刺考

 

 

 

Text Box:  私がまだ子供だったときのことです。専業主婦で一生を過ごした母親が、興味深げに言ったことがありました。声音のどこかに蔑みの色が漂っていました。だから、私の耳底にこびりついて、忘れられなかったのでしょう。

「夜、勤めに出る女の人は、誰の名刺を持っているか、名刺が一生の宝なんやて。」

その意味が分かるようになったのは、それから15年は経っていただろう、私自身が社会で働くようになってからのことです。

 

15年ほど前、アメリカ人がはしで寿司を食べるなんて想像もできない田舎の大学で日本語と日本事情を教えていたとき、名刺は日本独特のものだと教えました。外務省の外郭団体が作ったビデオは確かにそういうニュアンスだったのです。(笑) 教室でそのビデオを見たアメリカ人の大学生たちは、ぎこちなくお辞儀をしながら、日本人の名刺の渡し方を練習しました。今でも、教室中を沸かせた、あの戸惑った身のこなしと大きな笑い声が聞こえてきます。(笑)

 

つい最近、シカゴで、すごい名刺を見つけちゃいました。ミーハーの私は、心がわくわくしました。この名刺を持ってたら、絶対にお店でナンバーワンだよな、と。(笑)それも、バイリンガルの名刺です。ええっ、私が日英で書かれた名刺を見るようになったのは、四半世紀前にアメリカに来てからじゃなかったかなあ。。日本では、英語の名刺は必要ないもんなあ。。が、平民の小ささでしょう。でも、違うのです、この人は。19世紀末から日英の名刺を持って活躍していました。金子堅太郎伯爵です。

 

Text Box:  Text Box:  Text Box:  金子堅太郎は、1872年、岩倉具視欧米使節団がアメリカにやってきたとき、同行した旧福岡藩主黒田長知の随行員だったといいますから、シカゴにも来ていたのでしょうか。はたちになるかならないかの若者だったでしょう。使節団とともに東部に向かい、そのままアメリカ留学となって、ハーバード大学に入学したのでしょうか。のちに外交官となった小村寿太郎とともに勉学に励んで卒業したのが1878年6月。9月には帰国して英語を教えながら、出世のチャンスを待ちました。1880年に元老院の書記官となってから、着実に明治政府の中枢に歩を進めていきます。名刺には、“貴族院書記官長、貴族院議員、従4位勲五等”とあります。金子が貴族院書記官長となったのは、1889年の欧米視察から戻った1890年のことですから、名刺もそのころに作られたものでしょう。19世紀に作られたモダンなバイリンガルの名刺をじっと眺めていると、鎖国から解き放たれた日本を立派な文明国にしようと、当時から英語の名刺を必要とした人たちの気概がたちのぼってくるかのようです。平民は思いましたよ、小学校から英語を学ばなくても、立派なリーダーがいたら安心じゃん、へたに学んだばっかりに、仕事でタフな交渉にもちこたえられず、つい“トラスト・ミー”なんて口走ってしまったら、いい迷惑かけちゃうもんなあ、と。(笑)

 

金子堅太郎は、その後も、シカゴを何度か訪ねたようです。1899年6月と7月に、ハーバード大学での名誉博士号授与式の行き帰りに列車を途中下車してシカゴに、日露戦争が始まっていた1904年3月、セオドア・ルーズベルト大統領との交渉で渡米した際にもシカゴで途中下車。シカゴに何があったのか。日本ハーバード倶楽部の会長をしていた金子は、ハーバードのこねを使って、巧みな宣伝広報活動を行い、アメリカの対日世論を味方につけていたといいますから、シカゴにもハーバード出身の有力者がいたのでしょう。セオドア・ルーズベルトに小村寿太郎、金子堅太郎と、ポーツマス講和会議の席上に並んだ面々の胸のうちでは、ハーバードの大学旗でもはためいていたのかも。ああ、人脈を広げていく名刺はやっぱり一生の宝だ。(笑)

 

ところで、名刺は中国が起源だそうです。ヨーロッパでは16世紀にドイツで社交用として、アメリカでも南北戦争後にお金持ちのステイタスとして使われるようになったそうです。そして日本では江戸時代から。鹿鳴館時代には必需品になっていたそうですから、バイリンガルの名刺とはさっぱり縁がなかった平民の末裔は、20世紀末のアメリカでいったい何をしていたことか。学生にはいい迷惑をかけたかも。ごめんなさい、です。(悲笑)