リンカーンの国から

 

(39)インディアナ州少年時代

 

 

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Text Box:  インディアナ州南部、ケンタッキー州との州境になっているオハイオ川から16マイルほど北に、リンカーンシティという小さな村がある。そこに、リンカーン少年時代国立メモリアル公園がある。1943年に完成した、今は連邦公園局が管理しているビジターセンターだが、見てびっくり。ここまでせなあかんもんかい、と、一種の苛立ちのようなものすら感じてしまうほど、インディアナのど田舎にしてみれば立派な建物だった。なぜメモリアルかというと、ここでリンカーンが少年時代を過ごし、リンカーンの母親、ナンシー・ハンクスの墓があるからである。州から連邦の公園になったのは1962年のことで、インディアナ最初の国立公園である。

 

Text Box:  ビジターセンターの向かい、道を隔てた反対側のちょっとした高台に星条旗が翻っている。その裏に、ナンシーが眠るパイオニア墓地がある。苔むした小さな墓が並ぶ墓地で、ナンシーの墓だけが異様に立派である。ナンシーが神格化されている、と思った。リンカーンを生んだということは、それほどまで称えねばならないものなのだろうか。

リンカーンの父親トーマスは、ここに160エーカーの土地を購入した。一家がやってきた1816年12月ごろといえば、インディアナがやっと州に昇格したころである。このあたりは、人が一度も来たことのない未墾の森林地帯だった。今も公園では、そのフロンティアの手つかずの森をそのままに残して、当時の状況を再現しようとしている。

Text Box:  Text Box:  確かに、うっそうと大木が茂る公園内のトレールを歩いていると、低木やら下草やらが密生する未踏の地を切り開いて人が通れるようにし、畑を作って種をまき、木を切り倒して丸太小屋を作り、家具も手作りし、水を探してきては、毎日小屋まで運んで、という生活を、毎日えんえんと続けたパイオニアたちへの尊敬の念がわきあがってくる。やっぱり確かにアメリカを切り開いたパイオニアはすごい。裏返せば、人々の自分の土地を所有することへの執念がすごかったということでもあるとは思うけれど。

トーマスは、まず簡単にシェルターを作り、12月の冬の寒さをなんとかしのいで生き延びた。翌1817年、リンカーンが8歳になると、またもや部屋ひとつのーつまり壁を4つ作っただけの丸木小屋を作る。本を読んでいると、丸木小屋などは、トーマスのようなプロの大工の手にかかると、一日でぱっぱっと木を切り倒して作れるものらしい。今、その場所を掘り起こし、土の中から出てきたもので暖炉跡が再現されている。

 

Text Box:  すでに年のわりには大きかったリンカーンは、父親から斧を渡され、まきを作ったりと、親の仕事を手伝いはじめた。その年の秋には、母ナンシーの叔母、エリザベス・スパローとその夫、トーマス(トーマスはナンシーの義理の父親の兄弟)にエリザベス・スパローの甥、ナンシーの従兄弟にあたるデニス・ハンクスがこの地にやってくる。デニス・ハンクスはリンカーンより10歳ほど年上だったが、二人はのちのちまで親しい関係にあった。トーマス・スパローはあんまり仕事をせず、役には立たなかったらしい。でも、フロンティア生活ではなにかと家族、親類縁者の助け合いが必要となる。なぜアメリカ人が「ファミリーバリュー、ファミリーバリュー」ー日本人の家族観とはまったく違うものだーとうるさく言うかとなると、他に頼れるものがいないフロンティア生活にその原点を見るような気がする。

 

Text Box:  それから1年がたった1818年秋、このあたりで"ミルクシック"が大流行した。ミルクシックとは、オハイオ川周辺に生息するホワイトスネークルートという白い花の咲く毒草を牛が食べると、その乳を飲んだ人間にまで毒がまわってしまうという病気である。食べた牛は、激しく体を震わせながら、3日で死んだ。人間もかかると、激しく嘔吐して、意識不明になり、1週間たらずして死に至った。当時は、まさか植物が毒をもっているとは知らず、水が汚染されているのでは、と人々はいろいろ悩んだらしい。が、症状が出ると、それはそのまま死を意味していた。現代では、ほとんど問題にならないが、19世紀はじめのインディアナのフロンティアでは、死者の半分以上がこの病気で死亡したのでは、と考えられている。

 

Text Box:  1818年秋、トーマスの牛が体を激しく震わせて、その症状を見せた。絶望が一家に走ったに違いない。まもなく、まずトーマス・スパローが発病、9月28日に死亡。それからすぐに、妻エリザベスもあとを追うようにして死亡、それからご近所さんのピーター・ブルーナー夫人も死亡。そして、介護していたナンシー・リンカーンも発病し、倒れた。

 ナンシーが死んだのは10月5日、35歳だった。パイオニアたちは自分たちで棺おけを作るが、その秋は、トーマスはいつも誰かの棺おけを作っていた、と記録に残っている。

 

 ナンシーの墓は、丸木小屋から1500フィート南の丘の上に作られた。スパロー夫婦や近所のブルーナーさんもいっしょに埋められた。ケンタッキーの習慣にのっとって、トーマスは墓の上に石を置き、石にN.Lと刻んだ。

 その後、1人生き残ったデニス・ハンクスがリンカーンたちといっしょに住むようになった。リンカーンより2歳年上の12歳だった姉サラが家の中を切り盛りし、男三人の世話をした。誰もいない寂しい深い森の中で、大の男が二人、少年1人に12歳の少女との生活では、トーマス・リンカーンも、「何のためにこんなことしてるねん」と虚しくなったことも何度もあったに違いない。とりわけ雪の深い、寂しい冬の夜などは耐えられないものがあったのではないだろうか。

Text Box:  もうこんな生活、やってらんない、と、トーマスがもう一度ケンタッキー州エリザベスタウンに戻って、未亡人になっていた知り合いのサラ・ジョンストンに会い、結婚を申し込んだのは、ナンシーが死んでから1周忌がすんだ1819年12月2日のことだった。

 

ビジターセンターには、ナンシーを描いた絵がおいてあるが、この顔と姿は想像図である。そして、公園で私が一番びっくりしたのは、イリノイ州スプリングフィールドにあるリンカーンの墓からとってきた石で、墓とは別に、ナンシーの立派なメモリアルが森の中に作られていることである。ああ、そこまでするかあ。。