リンカーンの国から

 

(51) 1861年―イリノイを離れる

 

 

 

Text Box:  内田義雄は著書「戦争指揮官リンカーン」(文春新書)の中で、リンカーンが共和党大統領候補に彗星のごとく選ばれたのは、「今の時代と同じように、政治の玄人たちが、他の候補者と比べてみて、リンカーンなら選挙に勝つ可能性が大きい、と考えたからに違いないのである」と述べている。(26ページ)う〜〜ん、彗星のごとくかなあ。。1856年の大統領選では、副大統領候補の指名を争ったりしてるしなあ。。けっこうその気にはなってたと思うけれど。。。でもまあ、内田氏曰くの、玄人たちの読みどおり、「選挙に勝った」リンカーンである。

 

夫が大統領に選ばれたと知って、妻メアリは何を考えたか。きゃあ、どうしよう、服がない。ファーストレディになる服が。。女だあ。。(笑)ファーストレディになるんだから、最高級の服を着なくちゃ。。。(と女なら誰でも考えるだろう。。笑) 1860年の大統領の給料は25000ドルだったそうな。当時、イリノイの弁護士としてけっこういい給料をとっていた夫の収入がさらに5倍にもふくれあがると知って、メアリがまずしたこと。子供を家に残し、夫に任せて、ニューヨークシティに出かけ、ブティックを見て歩いたという。わかるなあ、その気持ち。。(笑)ところが、買い物をしだすと、メアリは止めることができなかった。大統領夫人だと言えば、どこの店も大歓迎。ニューヨークの店がつけにしてくれるのをいいことに、大きな借金まで抱えることになった。どうやら買い物依存症的兆候を見せていたらしい。それがのちのちまで、メアリの精神状態を疑うものとなっていく。夫たちよ、出世も考えものですね。。(笑)

Text Box:

大統領に選出されてからは、リンカーンはイリノイ州議事堂内の知事のオフィスで時間を過ごすことが多くなった。1861年1月31日、リンカーンはイリノイ中部チャールストンにいた年老いた義母サラを訪ねて、別れを告げている。まさかこれが今生の別れになるとは露とも思っていなかっただろう、とは言えないかも知れない。このころまでにすでに、サウスカロライナ(1860年12月20日離脱)、ミシシッピ(1861年1月9日離脱)、フロリダ(1861年1月10日離脱)、アラバマ(1861年1月11日離脱)、ジョージア(1861年1月19日離脱)、ルイジアナ(1861年1月26日離脱)の6州が連邦を離脱、翌日の2月1日にはテキサスが離脱している。戦争は不可避では、と考えられていたわけで、リンカーンもひそかに何かを覚悟していたかも知れない。 それでも、2月9日、イリノイで撮られた最後の写真を見ると、あごひげをはやした顔の表情は、まだまだ明るい、人間的なものが漂っている。新大統領としての自負と希望があったに違いない。

 

Text Box:  もっていた家具のほとんどは売り払い、家は一年350ドルで、グレート・ウエスタン鉄道の社長、ルシアン・チルトンに貸し出した。 リンカーンは二度とこの家を見ることはなかった。メアリは、ニューヨークで買った新品のドレスをるんるん気分で荷造りしたに違いない。

Text Box:  52歳のリンカーンに43歳のメアリ、長男ロバート17歳、三男ウィリー10歳、四男タッド7歳のリンカーン一家がいよいよワシントンに向けて、列車に乗り込んだのは1861年2月11日である。うっとうしい、霧雨の降り続く日だった。(リンカーンにまつわる日というと、いやに天気の悪い日が多いような気がするのだが。。笑)グレート・ウエスタン鉄道のスプリングフィールド駅で、列車の一番後ろから、リンカーンは見送りの人々に向かって別れのスピーチをした。「Farewell Address」といわれるものだ。ゲティスバーグの演説と匹敵するぐらい見事なものだったらしい。

今もその駅が、「リンカーンデポ」として残されている。壁には、リンカーンが出発した日を描いた絵や特別列車の時刻表やら、別れのスピーチがかかっている。スピーチの最後は「I bid you an affectionate farewell」である。affectionate farewellかあ、私もどこかで使おう。。(笑) 

 

Text Box:  Text Box:  時刻表によると、朝8時発の列車は、(現代のアムトラックを想像すると、時間通りに出発したのだろうか 笑)途中多くの駅に止まり、停車するたびに地元の人々が祝いの言葉を送った。列車の中では、一家の気分は実に高揚したものだったに違いない。リンカーンを除いては。長男ロバートなどは、父親に、大統領就任挨拶の唯一の手書きの原稿がはいったかばんを大事にするように言われていたのに、興奮しすぎて、女の子にちょっかいを出したり、機関車の仕事をさせてもらったり、ワインを飲みすぎたりして、大事なかばんのことなどすっかり忘れ、うっかりポーターに渡してしまった。何も知らないポーターは、そのかばんを他の荷物といっしょに、片付けてしまった。めったに子供たちに対して怒らなかったリンカーンだが、かばんがなくなっているのに気づくと、ロバートとかなりの口論になった。荷物の山の中を必死で探してようやく見つかり、リンカーンの大統領就任演説は、のちの世まで残ることになったが、列車の中のリンカーンの表情を想像するに、ワインを飲んで陽気になれたとは到底思えない。

出発のちょうど1週間前の2月4日には、連邦を離脱した州が動き始めていた。ワシントンまでは、12日間の列車の旅である。出発1週間後の2月18日には、連邦を離脱した7州の代表(テキサスもすでに離脱していたが、会合には代表を送らなかった)がアラバマ州モンゴメリーに集まり、モンゴメリーを首都にして、「アメリカ連合国」(略称南部連合)をつくった。そして、ジェーファーソン・デービスを大統領に選び、憲法を制定して独立国家として諸外国に承認を求めはじめていた。デービス大統領は10万人の兵士を集めることを決定している。内田義雄によると、「南部連合は、アメリカ合衆国憲法では、連邦よりも州の権利が優先していると主張、今日でも南部諸州では、内戦は”州のあいだの戦争”であり、”南部諸州の独立の戦争”であった。独立戦争であれば、イギリスからの独立戦争やオランダのスペイン帝国からの独立戦争のように、たとえ産業力や軍事力が劣っていても、成功する可能性は十分あった。独立をいどんだ相手に対して戦争による犠牲があまりに大きいことをさとらせ、相手の国民の厭戦気分をあおることに成功すれば、独立には十分チャンスがあったから」(35ページ)だそうな。

そういうニュースは、電信で列車の中のリンカーンにまで伝わっていたのでは。メアリが、間近に迫ってきたファーストレディとしての日々を、新しい最高級のドレスを着て、ホワイトハウスを意気揚々と歩き回っている自分の姿を想像して、一人にこにこし、3人の息子たちを満足げに眺めているときに、横でリンカーンはむずかしい顔をして、窓の外でも眺めていたのでは。。。ああ、家族よ、いつの時代もどこでも、けっこうみんなばらばらなのかも。。(笑)

 

列車がようやく東部に入り、ペンシルバニアに着くころには、南部シンパによるリンカーン殺害計画があるらしいという情報が飛び込んできた。アメリカ最初の諜報機関であるピンカートン・エージェンシーのアラン・ピンカートンが、ボルチモアにある南部シンパの拠点を調べたところ、リンカーンがボルチモアを通過するときに、フィラデルフィア・ウィルミントン・ボルチモア鉄道の施設を破壊して、リンカーンを殺そうという計画があったとか。ピンカートンはすぐにフィラデルフィアのホテルにいたリンカーンに報告、その夜すぐに、ハリスバーグからワシントンまでリンカーンを別の秘密列車に乗せて運び、警護すると申し出た。今日の歴史家たちの中には、そんな暗殺計画はピンカートンのでっちあげただったと考える人もいるらしい。

とにもかくにも、秘密列車は無事にワシントンに到着した。リンカーンは、トレードマークのトップハットをウールの帽子に変えたいでたちで、列車から降り立った。2月23日のことである。ご苦労さん。(笑)