リンカーンの国から

 

(44)第3回ディベート:ジョーンズボロにて

1858年9月15日

 

 

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Text Box:  えんえんと、車を州南部に向けて走らせた。住んでいる北部デカブの町から7時間。平坦な畑風景が、やっと木々がこんもりとよく茂る丘陵地帯になった。シャウニー・ナショナル・フォレストが近くなって、気温も上昇、「リトルエジプト」と呼ばれた南部を実感する。南イリノイ大学のある町、カーボンデールからまだ半時間近く南にいったところにあるアナ。小さな小さな町だが、リンカーンも歩いた古い町である。そのアナに隣接している村がジョーンズボロ。人口1780人。リンカーンしか「売り物」がないのは当然で、コンクリートの歩道には、リンカーンの靴跡が描かれ、たどっていけば、リンカーンとスティーブン・ダグラスが行なった第3回のディベート場所にいけるようになっていた。

 

それにしても、今でこそ車で気軽に出かけていけるものの、それでも7時間となると、運転だけで半日仕事である。リンカーンの時代に、こんな南部でディベートをするとなると、どれだけの時間とエネルギーをかけて、リンカーンやダグラス、メディア、そして普通の人々はここまでやってきたのだろうか。鉄道が通っていたとはいえ、バージニア州の南端、リッチモンドよりまだ南に下ったのと同じ緯度なのである。

 

Text Box:  ジョーンズボロのディベート会場は、今は森の中にあって、なかなか気持ちのいい場所である。集まった人の数は1400人ほど、その大半はディベートには冷ややかだったそうな。南の奴隷州ケンタッキーと、西の奴隷州ミズーリからやってきた人々で、ブキャナン派民主党ーつまり南部民主党を支持する人々だった。つまり、リンカーンにとってもダグラスにとっても反対勢力である。

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ディベート前夜の1858年9月14日の夜、アナの連邦下院議員共和党候補、デビッド・フィリップがリンカーンをセントラリアの町で出迎え、アナに連れてきた。リンカーンは、州共和党の事務局長であり、シカゴの新聞「プレス・アンド・トリビューン」の記者をしているホレス・ホワイトと、速記者ロバート・ヒットを同行させていた。州共和党の事務局長が新聞記者か。。新聞を読まずとも、どっちがディベートに勝ったかわかるというものだ。夕食のあと、フィリップとリンカーンは、ホワイトとヒットが泊まっているジョーンズボロ近くのユニオンホテルへ。ポーチに1時間ほど座って、ぼおっと彗星を眺めていたそうな。それからリンカーンはアナの町に戻り、フィリップの家に泊まった。50年後に、どこかの記者が思い出して書くに、「日中は半分飢餓に近いような状態になるし、夜はジョーンズボロの宿屋は人が多いしで、南イリノイはどこも忌まわしかった。」暑いは、食べるものはないわ、人はうるさいわ、だったのかな。

 

Text Box:  翌9月15日、リンカーンは再びジョーンズボロへ。古い裁判所で時間をすごしたり、ユニオンホテルで政治家たちに会ったあと、早い昼食を食べに、アナのフィリップの家へ。正午ごろ、大砲付きのダグラスの列車がイリノイ南端のケイロからアナの駅に到着。列車にはそれほど人は乗っておらず、駅にもそれほど人は集まっていなかった。南部の人は、政治にはあんまり興味がなかったのかも。ダグラスと付き人たちは、馬車に乗って、ジョーンズボロの裁判所へ。一方、ダグラス随行の楽隊と、大砲やら旗やら垂れ幕をもった人々は行列を作って、アナからジョーンズボロまで歩いた。楽隊の少年たちは疲れて、空腹で、眠たくて、どうもしゃきっとして行進することができなかったらしい。ご苦労Text Box:  さん。

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Text Box:  リンカーンがほとんど支持を得られないとわかっている町での第3回ディベートは、ダグラスの演説で始まった。南部の聴衆相手にダグラスは、共和党は、北部では、白人の馬車のオーナーが御者となり、馬車にはフレッド・ダグラス(黒人)が白人の女性とその娘といっしょに座るなんてことを許す奴隷廃止論者(つまり黒)のくせに、中部に来ると多少白くなり、ここ南部では、何も言えなくなって、ただミズーリ妥協法撤廃の不都合を話すだけで、票を獲得しようとしていると、共和党の玉虫色と地方的な性格を強調した。場所で言うことを変えるなんて、それこそ、house divided against itself and hence cannot standのいい例ではないか、とリンカーンの有名な演説をもじった。 リンカーンは、奴隷州と自由州とで分断されたままでは国はもたない、というけれど、そんな証拠はどこにあるんだ、ずっと分断してやってきたではないか、それぞれの地方によって特色は違うのだから、地元の法律が有効なのだ、そして連邦政府は最初からそのつもりだったんだ、リンカーンは自分がここより東の、ワバッシュ川を越えたインディアナでうまれて育ったと言い訳して、南部のことを知ってるように言うけれど、どこで生まれ育ったかなんて、政治的信条とは関係ないよ、私がイリノイで知っている一番たちの悪い奴隷廃止論者は、自分たちの奴隷をアラバマやケンタッキーで売ったんだ、そしてここに来て、廃止論者になって、自分たちが奴隷を売った金で生活してるんだ、などなど。。ふ〜〜ん、なかなかいい論点なのでは。。(笑)その点、民主党は、いつも州や準州が独自で決めたことは、連邦政府が介入しない、という一貫した原則を通してきたんだと、自分たち民主党の終始一貫した態度を強調した。 

 

どうやらダグラスにしてみれば、共和党に"そそのかされて"、民主党が分裂、民主党員だったライマン・トランバルがリンカーンと組むようになり、かつダグラス自身はブキャナン派と決裂してしまったことが一番の気がかりだったようだ。そこで、地元の民主党員といっしょに公の場に出たダグラスは、自分こそが民主党の正統派だと印象づけ、リンカーンは民主・共和どちらの党も破滅させて、戦争をしかけていると抗議した。

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それにしてもダグラスの演説を読んでいると、確かに納得する部分もある。独立戦争時の13州はみんな奴隷州だったし、独立宣言に署名した人はみな奴隷をもっていた、その後、州や自分たちのコミュニティが独自の法を作り、自分たちの生活を決定してきたのは正しいんだ、ニューヨーク州なら黒人でも250ドル相当の土地をもっていたら、参政権があるし、メーン州では、黒人でも参政権があり、被選挙人にもなれると決めているのは、確かに地方自治にかなっている。それでもやっぱりな、と首を傾げたのは、目先のその場しのぎの解決策を詭弁で並べるのではなく、理想をめざす信念の力がものを言ったということだろうか。

後年、ダグラスが"永遠に"負けたのは、 黒人は市民ではないし、なるべきではない、独立宣言で人は平等だ、と言ったとき、黒人もインディアンもfejee(って何?)もmalayも、その他あらゆる劣等な人種は含まれていない、ヨーロッパからの白人のみを意味する、といい、この国は白人を基礎に、白人男によって、白人男とその永遠なる繁栄のためにつくられたのであり、他の誰によってでもない、白人男によって治められねばならない、と演説したからだ。その時ダグラスは、群衆から大喝采を浴びたという。

 

Text Box:  一方、リンカーンは、地元ーつまり集まってきている奴隷制賛成派ーから支持を得られないのはよくわかっていたので、ダグラスの白人至上主義的言説には賢くも答えるのを避けて、再びダグラスのフリーポート・ドクトリンを問うた。つまり、人民主権によって、準州に奴隷制が導入できるようになるとするダグラスの主張は、準州から奴隷という財産を除外するのは憲法違反だとしたドレッド・スコット判決があるから、うまく働かないだろう、と論をふっかけたのである。

リンカーンは、ダグラスを「ジャッジ」と尊称で呼ぶ。「建国の父たちの計画を変えたのは、ジャッジ、あなたでしょう。建国の父たちは、奴隷制がいつか消えていくものと考えていた、新しい領土にまで奴隷制を拡大することなど考えていなかったはずだ、ミズーリの妥協法で、やっと国に平和が訪れたのに、なぜそれをそのままにできないのですか。いつけんかをやめるつもりなのですか。ジャッジ、あなたは憲法を支持し、憲法がテネシーで奴隷を所有する権利を保障しているというが、ではなぜ、人民主権とやらで、新しい準州でその権利を放棄する法案ができる可能性を支持するのですか、それは、あなたの憲法解釈を犯すものではないのですか、裁判所がそんな法案は憲法違反で、有効でない、と判断を下すのにどれぐらいかかるでしょうか、一瞬もかからないでしょう。」

 

つまり、もし準州で奴隷を所有する市民が、人民投票によって、その準州では奴隷所有が禁止とされたならば、自分たちの奴隷財産を守るために連邦法に訴えるでしょう。すると、すでに連邦法は、準州は奴隷制を禁止できない、との判断を下しているのだから、どうするねん、と詰め寄ったわけである。で、ダグラスさん、むにゃむにゃ。。。自分の都合の悪いところは知らん顔だったようで。。

そして、法律やらリーガルマインドと縁のない21世紀の日本人の女は、「こんな難しい法律論議、イリノイ南部のお百姓さんたち、分かったのかなあ。わからなかったんじゃないのを。」と、頭を抱えるだけである。(笑)