リンカーンの国から

 

(34)ケンタッキー州ホッジェンビルーリンカーン生誕の地

 

 

Text Box:  はじめてその白亜の建物を見たとき、ぎょっとした。まるでギリシャのパルテノン神殿かのような大仰さである。おお、そんなに大切かよお。。「神殿」の前の56段の石の階段は、リンカーンの56年の人生を意味しているとか。一段一段、リンカーンの人生を踏みしめながら階段を上って、無事に「神殿」の中に入る。国立公園局のおばさんが神妙な顔をして、ドアのところにたっている。中で写真はとれない。なんの写真か。単なる小さな丸木小屋だ。公園局のおばさんに聞いてみた、これはオリジナルの小屋ですか。おばさんはかぶりをふった、レプリカです。それでも写真はとってはいけないの。。なあんでえ。。。じゃあ、神殿が立っているまさしくこの場所に、この丸木小屋は立っていたのでしょうか。つまり、ほんとにこの場所で、リンカーンは生まれたの。答えはノーである。なあんだあ。。じゃあ、この小屋も「神殿」も何の意味があるの。。。と、問うてはならないのである。

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結婚して、エリザベスタウンに引っ越したトーマス・リンカーンとナンシー・ハンクスは、1808年10月、エリザベスタウンの南東にあるシンキング・スプリングの近くに、200ドルで348エーカーの土地を新しく買った。土地はそれほど肥えてはいなかったが、たぶんナンシーの親戚に近かったから、買ったのだろうと考えられている。そして、水の湧き出ているシンキング・スプリングのすぐそばに、丸木小屋を建てた。約横18フィート、縦16フィートの広さで、もちろん床板はなく、地べたでの生活である。簡単な窓一つ、もちろんガラスがはまっているわけでなし、ドアも当然一つだから、さぞ小屋の中は暗かっただろうと思うが、日の出とともに起きて、戸外で働き、日の入りとともに寝る生活だったろうから、小屋の中が暗くても、なんの不自由もなかったに違いない。暖炉と煙突はあった。

 

1807年10月、エリザベスタウンで最初の娘サラが生まれていた。家族3人がシンキング・スプリングに移ってきたときには、ナンシーは二人目の子供をみごもっていた。1809年2月の冬の夜、ナンシーは暖炉のそばで、とうもろこしの穂で作ったマットとクマの毛皮の上で横たわっていた。そして生まれたのが、祖父の名をもらったのちの大統領アブラハム・リンカーンである。

Text Box:  それから二年間、一家はこのシンキング・スプリング農場に住んだ。が、1811年春には、トーマスはまた次の土地に移ることを決心する。ここから10マイルほど東にあるノッブクリークの農場で、ここよりは肥沃な土地だった。

 

この白亜の建物はメモリアルビルディングと呼ばれ、完成したのは1911年である。セオドア・ルーズベルト大統領が1909年に礎石を置き、2年後にウイリアム・タフト大統領によって献呈された。この116エーカーの農場が国立公園となったのは1916年、リンカーン生誕の歴史的場所と名づけられたのは1959年のことである。リンカーンが、「貧しさとつつましやか」を売り物にしたにもかかわらず、立派なものを建てたものだ。

 

最初にこのリンカーンの農場を買ったのは、1894年、ニューヨークのビジネスマンだった。丸木小屋を動かして、全米各地で"見世物"にしていたが、しばらくして、その小屋が行方知らずとなる。そういう金儲け主義を危惧したのだろうか、1906年にリンカーンファームアソシエーションを作って、リンカーンの生誕の土地を守り、メモリアルを建てようと動いたビジネスマンのグループがあった。グループの中には、マーク・トーウェンもいたとか。そして10万人の市民から35万ドル以上の寄付金を集めて、メモリアルが建てられたのである。

 

ホッジェンビルーケンタッキーの広大な緑の畑と牧場、森にうずもれてしまったような小さな小さな村である。このモニュメントがなかったら、誰もあえて訪れるとはとうてい思えない。たとえリンカーンが生まれた土地といえども、である。リンカーンさん、言い訳はなんとでもつけられると思うけれど、やっぱりモニュメントはリンカーンさんの名前を使った「村おこし」ですよね。それとも、まったく純粋なリンカーンさんへの心酔の気持ちの表れだろうか。

 

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