「エメットテイルとシカゴ、そして私」

(日米タイムス、2006年新年号掲載)

 

エメット・ティルと母マミー

 

2005年6月初め、エメット・テイルさんのお墓が50年ぶりに掘り起こされたと、カリフォルニアはバークレーの真っ青な空の下で聞いた。古い友人宅で、ワイン片手にシカゴの話をしながら談笑していたときである。「そうかあ、やっぱり連邦政府はやったんだあ。」

 エメット・テイルとは、1955年の夏、休暇でミシシッピ州の親戚宅に遊びに行ったとき、雑貨店の店主の妻である白人女性に向かって口笛を吹いたらしい、というただそれだけの理由で、顔形もなくなり、身元を示すものは指輪だけというほどまでに惨殺され、川に投げ捨てられた当時14歳の黒人少年のことである。シカゴ出身だった。白人の店主とその義理の弟2人が裁判にかけられたものの、陪審員は全員白人男性という状況下で、身元不明を理由に無罪放免となった。4ケ月後、二人は4000ドルをもらって、雑誌「ルック」に殺人を告白,以後エメット・テイルは、人種隔離・差別問題の象徴的存在となり、のちの公民権運動の原動力となった。

 

 そのエメット・テイルさんのお墓が、50年ぶりに司法省によって掘り起こされ、捜査が再開されたとバークレーの乾いた空気の中で聞いても、何やらピンと来なかった。カリフォルニアとシカゴはまったく別世界のようで、同じ国の話とは思えなかったのである。

司法省が掘り起こす1ケ月ほど前に私は、シカゴ市の南、ブルーアイランドにある黒人墓地「バーオーク」に彼の墓を訪ねていた。視界をさえぎるものが何一つない、何やらサッカー場みたいな所だった。「ここはほんとに墓地なの、こんなとこ初めて」と一人ぶつぶつ言いながらあたりを見回すと、何人かの人がただ地面を見下ろしながら歩きまわっている。異様なのは、墓碑はもちろんのこと、高いオベリスクや派手な大邸宅みたいな霊廟やら、ロットを取り囲む石やら、とにかく地面から立ちあがるものが何もないからである。芝生のあいだでところどころ浮かんでいるのは、参拝者がもってきた花だけ。墓碑はすべて平らに土に埋まっている。だから人はうつむいて石を探すのである。碑を立てるより安価なのだろう。「ゆりかごから墓場まで」−人生を支配する貧困と階級問題を象徴するかのような墓地だった。

 

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エメット・ティルの墓
 しばらく歩き回って、やっとエメット・テイルの墓を見つけた。これまた見たことがない立派なお墓だった。碑は土に埋まっているものの、その真ん中に、花瓶とペンダントが作りつけになっていた。花瓶に生けられたユリと赤いカーネーションがしおれている。ペンダントのふたをそっとあけてみた。白黒写真の元気のいい顔が出てきた。よく知られた顔である。首にリボンのようなタイをしている。おしゃれで闊達、独立心旺盛で母親思い、冗談好きな頭のいい少年だった。私は思わず写真に手を合わせた。14歳ーその若すぎる凄惨な死が、過去50年そしてこれからも、私も含めて多くの人々に与え続けるだろうエネルギーに感謝して。

50年前、死体の検視は行われず、ミシシッピ州当局は大急ぎで埋葬しようとした。シカゴまで遺体を運び、棺をあけたまま葬儀を行い、世界中にリンチのすさまじさを知らしめたのは、母親マミー・テイルである。掘り起こしに反対する遠い親戚もいたようだが、たとえここに埋まっているのがエメット・テイルでなかったとしても、「彼」の死が無駄になることは決してありえない。

 

 シカゴは昔も今も鉄道の大きなハブである。ミシシッピ河に沿って大陸を南北に縦断するイリノイセントラル鉄道はかつて「グリーンダイヤモンド」と呼ばれ、ミシシッピ、アーカンソー、ルイジアナといった南部の農村地域の黒人をシカゴに運んだ。シカゴは「中西部のエリスアイランド」となり、とりわけ2度の大戦後に黒人の「大移動」を経験した。マミー・テイルの家族・親類縁者もミシシッピから移ってきた人々だった。

あの夏、エメットは、ミシシッピ州モニ−に残っている親戚を訪ねて,シカゴの朝7時50分発の列車「シテイ・オブ・ニューオーリンズ」に乗りこんだ。イリノイ州南端の駅カイロで、列車がかつての奴隷州ケンタッキーに入る前に、黒人たちはエンジン近くの黒人車両に移らねばならなかった。100年ほど前に「奴隷解放」は宣言されたといっても、黒人隔離のジム・クロー法がまかり通っていた時代だった。

 

あれから50年後の2005年4月、私もまたシカゴからニューオーリンズ行きのアムトラック「シテイ・オブ・ニューオーリンズ」に乗りこんだ。この線に乗るのは2度目だった。1度目はテネシー州メンフィスで下車したが、今度はまっすぐメキシコ湾をめざした。約20時間の大陸縦断の旅である。

 

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 メンフィスを出ると、列車はすぐにミシシッピ州にはいる。ミシシッピ河と、水の中に木立が並ぶ沼地デルタにはさまれた、広大で平坦な農地のあいだを列車はひた走った。家は一軒もない。人も車もほとんど見かけない。時折、給水塔と大きな製粉機械がぽつんと立っているだけのさびれた村を通過する。人のいない広大な農地は、数年前に訪れた北カリフォルニアの、戦時中のツールレーキ日系人強制収容所跡付近の風景を思い出させた。

 シカゴからちょうど12時間、ミシシッピ州グリーンウッドに停車したときの印象を私はメモに書き残していた。窓から農機具店の看板が見える。「一番高い建物は給水塔か。列車が止まったあたりの建物は崩れている。ミシシッピに入って初めて人を見た。くずれかけた店の前にぼおっと立っている黒人老人男性二人。何をして生活しているのか。」インドで見かけた、棒を片手に何をするわけでもなく道端に座りこんでいる、汚れた白衣の男の後ろ姿に似ていた。道幅の広さに比べて、行き交う車の数の少なさに、グリーンウッドが小さな小さな農業の町であることは明らかだった。黒人男性二人が列車を降りていった。

 グリーンウッドからさらに南下、州都のジャクソンが近づくにつれ、沿線も開けていく。次の停車地ヤズーシテイの駅前は活気があって、ガソリンスタンドもマクドナルドも並んでいた。ミシシッピに入って初めて見た「文明」だった。つまり、海岸線のメキシコ湾が近づくにつれ、やっと再び町らしくなっていくのである。グリーンウッドは、北からも南からもどこからも遠く離れたアメリカ深南部のど真ん中にあった。そして、エメット・テイルが殺された村モニ−は、そのグリーンウッドからブルーハイウエーを10マイルほど北にあがったところである。今ですらこの様子なら、50年前は言わずもがなだったろう。

 

 モニーあたりのデルタ地帯は綿花栽培地として知られ、1955年当時の人口は400人ほど。大半が綿花を収穫する黒人たちだった。エメットも、あの夏の日の午後、生まれてはじめて綿花摘みを経験している。事件後、人口は減って、現在周辺に住む人々は100人を切っているとか。当時から綿花プランテーションで働く黒人人口のほうが白人のそれよりはるかに多かったにもかかわらず、黒人たちに投票権はなく、「奴隷制度」は続いていた。

なぜエメットは殺されねばならなかったのか。それは一種の南北戦争だった。黒人たちに厳しい人種コードが課されている南部の社会文化風土、たとえば白人にはいつも「イエス・サー」と答える、白人優先、白人を直視しない、ましてや黒人男性が白人女性に声をかけるなど絶対に考えられない、といった目に見えない人種間の境界線を、北部育ちのエメットが知るよしはなかった。そして裁判は、殺人そのものを裁くというよりは、人種隔離・差別を当然とする南部の生活様式と価値観を守ろうと、州政府をあげての北部から来た「よそもの」との戦いとなった。無罪放免となった犯人たちを守ったのは南部そのものだったのである。

 

 現代の南北戦争に”負けた”のは、実はエメット・テイルだけではない。1965年、人種間の平等を求めて北部にも戦線を拡大しようとシカゴにやってきたマーチン・ルーサー・キング牧師もまた”敗北”を喫した。

 南部でのさまざまなデモ行進やピケット張り、ボイコット運動に成功してきた勢いをかって、1966年夏、キング牧師はシカゴの黒人市民団体の活動家たちを組織、人種隔離政策撤廃やハウジングの改善を求めて、何度かシカゴの町をデモ行進した。が、デモは成功からはほど遠かった。反デモ隊の白人たちからレンガが投げつけられ、キング牧師は額から血を流しながら歩いた。その姿には、労働者階級の白人たちの抵抗と、資本主義の原理に正当化された抑圧の構造が浮かんでいた。

 ニューオーリンズでニューヨーク行きのアムトラックに乗り換えた私は、翌朝アトランタに向かった。アトランタにはキング牧師の墓がある。墓の前のキングセンターで見たドキュメンタリービデオの中でキング牧師は、「南部の農村地帯よりも変えることがむずかしい社会システムの壁」にぶつかった怒りに顔をゆがませながら、吐き捨てるように言った、「シカゴほどひどい町を私は知らない」。

 そして私自身は、といえば、今、イリノイに来てはじめて毎日黒人問題と向き合っている。職場は完全に膚の色で微妙に”棲みわけ”されている。それは、法律の入りこむ余地のない巧妙かつ複雑な差別構造と人間心理であると同時に、強力な政治的アリーナでもある。

一体「人種」とは何なのだろうか。若い黒人監督がライフワークとしてエメット・テイル事件を追い、新しい証拠を提供、今回の連邦政府の捜査再開のきっかけとなったドキュメンタリー映画「「The Untold Story of Emmett Louis Till」では、無罪評決が出た瞬間、犯人二人が妻たちと抱擁し、熱烈なキスを交わすおぞましいシーンがあった。あの瞬間一体彼らは何を喜んだのだろうか。犯人の一人、ロイ・ブライアントはのちに、「何も後悔していない。今でも同じことをする」とインタビューに答え、黒人への憎悪と見せしめを正当化する思いをあらわにしたという。

 

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マミー・ティルの墓(Click)
 一方、母親のマミー・テイルはその後教師となり、23年間シカゴの公立学校で教え続けた。子供たちのそれぞれの命には目的がある、息子の死は決して無駄にはできない、という強い覚悟と意志が、人種の違いを超えて無数の人々に力を与え続けた。彼女は犯人たちに謝罪は求めたものの、死刑を望んだことは一度もなかったという。マミー・テイルは2003年に81歳で亡くなったが、彼女をエメットと同じバーオーク墓地に埋葬した1月11日その日に、当時のイリノイ州知事ジョージ・ライアンは、164人の死刑囚を終身刑に減刑した。犠牲者を生き続けさせるのは死刑ではない、と、前知事はマミー・テイルの死刑への思いに言及した。

 

 

 

 

 

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エメット・ティルの葬儀が行われた教会
今、シカゴでは、エメット・テイルの葬儀のあった教会を歴史的建造物として指定しようとするロビー活動がはじまっている。シアーズタワーを遠景に望む40番街とステート通りの角にあるRoberts Temple Church of God in Christ である。息子の無残な姿を公にしたマミー・テイルの勇気がのちの公民権運動の発火点となったからである。 2005年10月24日、デトロイトで92歳で亡くなったローザ・パークスもしかり。彼女はエメット・テイルの死に勇気づけられて、アラバマ州モンゴメリーで、バスの黒人席への移動を拒否した。彼女を支援し、バスボイコット運動から公民権運動の先頭に立ったのがキング牧師である。そのキング牧師は、1963年のエメットの命日、8月28日にワシントン10万人大行進を行い、有名な「I have a dream」の演説を行った。

 

 

 

 

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エメット・ティル・ロード

1991年7月25日、エメットの50歳の誕生日には、シカゴの71番街を「エメット・テイル・ロード」と名づける献呈式が行われ、ローザ・パークスも式に駆けつけた。71番街とは、キング牧師がデモ行進中に怒った白人たちに石を投げつけられた通りでもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「左翼のメッカ」と呼ばれるシカゴー社会の不正に立ちあがる勇気ある人々のエネルギーが確実に渦巻いている町である。そのシカゴで、50年目のエメット・テイルの命日、2005年8月28日に会合が開かれ、私は出かけていった。白人と黒人、そして私というたった一人の黄人の黙祷で会ははじまり、人々は50年前には無名だった一人の少年の生と死に思いをはせた。どんな小さな短いいのちであろうと、すべての人間に社会とともに生きるチャンスと責任と喜びが与えられているー今、自分が生きている、生かされている意味を鮮烈に、そしてエメット・テイルをたまらなく身近に感じた午後だった。

 

 

 

Link to Emmett Till Case Picture

(要注意: 残酷な写真が掲載されています)

 

 

 

エメット・ティル メモリアル ブリッジ