第3回 親と学校の関わり

 

隣人のリンダは、毎日学校で昼食時の監督をしている。「今、学校でどんなことが起きているか知りたかったから」だと言う。娘の通う小学校は、1年生から5年生までで児童数425人、延べ120人近い父母がボランティアとして関わっている。内容は遊び時間の監督、図書館や教室での補佐、チューターと多岐にわたっている。筆者も、クラスごとの校外学習の時に、自分の車で生徒を運んだことがある。これらの活動は、PTA活動とはまったく別で、なんとか学校と関わりたいと、一部の親が自発的に始めた活動である。

 

先日、文部省の派遣事業でこの学校を訪れた、関東のある県の教育視察団の先生方は、保護者と教師が一体化していてすばらしいとほめた。しかし、このような親の教育への関与は、母親が生活のために働かずにすむ、経済的に恵まれた裕福な地域にある学校でこそ可能となる。娘の学校は、町でも非常に例外的という。

 

アメリカにおける教育の質の格差は、校区ごとにはなはだしいものがあり、公平性に欠ける。地方分権の進んだアメリカでは、公立学校の運営も自治制で、その地域の固定資産税でまかなわれる。コミュニティが貧しいと、不動産評価が低くなり、当然教育に回されるお金も小さくなる。学校格差も当然広がる。

 

日米の教育事情の根本的な相違は、小学校から大学まで、アメリカでは教師や学校は尊敬されないことだ。一般的に教師の給料は、日本に比べると格段に低い。「教師の給料を払っているのは親なんだから」などと小学生の子供に言って聞かせる親もいて、教師よりも当然親が力を持っている。

 

教師は生活指導など一切しない。子供の教育に関心を持つ余裕のない貧困家庭の親たちは、ますます学校から遠ざかっていき、アメリカ社会の貧富の差はますます膨らんでいく。

 

親が子供の生活に全責任を負うのは、多民族社会で、家庭環境が全部違うと考えるからだ。その最たる理由は宗教である。「進化論など、学校で勝手に間違ったことを教えられたら困る」と考える親たちは、ホームスクールを始める。その大半は、家での宗教教育である。聖書をもとに作られた教材を通信教育で取り寄せて行う場合が多い。

 

友人のペギーも自分の子供たち3人と近所の子供を集めて、ホームスクールをしている。理由は宗教ではなく、「子供を親から離すのはよくない」という独自の考えに基づいてのことだ。公立学校は子供一人一人のペースを大切にしない、何も学ばせずに卒業だけさせられるから、とも言う。娘のアビーはまだ小学5年だが、すでに中学2年の勉強をしている。ペギー自身は教員免許を持っていないが、とにかく子供全員が高校3年になるまでホームスクールを続けるという。

 

アメリカでは、一言で「高校を卒業した」と言っても、実にさまざまな背景をもった人間がいることになる。その多様な人間たちが教育行政をつかさどる。町の教育委員会を構成する教育委員は、住民によって選挙で選ばれる。本職はほかにあり、月に2度開かれる委員会に出席すれば、1回75ドルが支払われるという名誉職である。一度候補者の背景が新聞に掲載されたことがあったが、一目見て思わず「こりゃだめだ」と思ったのを今もはっきりと覚えている。ホームスクールを受けた人、高校を卒業していない人。。。教育長こそ教育のプロだが、有識者というわけでもない、普通の素人の人間が公立教育を運営するのである。裁判の陪審制度とも軌を一にする発想だが、日本人としては「信用できない」という思いがどうしても頭をかすめてしまう。

 

2年ほど前には、教会組織に支援されたキリスト教右派の人間が選ばれて、その発言が何かと物議をかもしていた。教育界は誰にもまかせられない、親がしっかりと見張らねば、という意識を持たざるをえない。だからなのか、教育委員会の会合は住民に公開されている。誰でも、ふだんから疑問に思っていることや討議されている事項について、自由に意見を述べることができる。筆者も一度、8人の教育委員の前に立って発言したことがある。教師の採用条件として認められていた、少数民族優遇策の撤廃が採決されたときで、言うべきことは言わねば、という心境だった。

 

視察団の先生方からは、「日本では子供のしつけができず、何でも学校に押し付ける親が多い。子供を学校から親や地域に返そうという動きが強まっている」と聞いた。たしかに、子供が社会の健康な一員へと成長していくには、家庭教育による人格形成が重大な影響を及ぼす。しかし、公権力が嫌悪され、個人の自由と多様性が幅を利かすアメリカから見ると、親が関わらずにすむほど、まだまだ学校と教師に権威が与えられ、どんな子供にでも「公平」に教育を与えようとする、一定水準の秩序がある日本がうらやましい。