第6回 “貧しい”食生活

 

アメリカの食生活の貧しさは、アメリカ人自身がよく知っている。それでも、夕飯時にマクドナルドへ行くと、若い夫婦が1歳ほどの赤ん坊にハンバーガーを食べさせているというのが現実である。

 

夫婦共働きとなると、どうしてもファーストフードや冷凍食品で済ませることが多くなる。健康を左右する食生活は、子供の時から一生ついてまわることを考えると、子供はいい犠牲者である。忙しい日常で、「食べる」が早く満腹になる意味しか持たないため、スナック菓子―junk food と呼ばれるーの食べすぎが大きな問題となっている。

 

料理する時間がない上に、アメリカ人には食が自然の恵みだという感覚が非常に希薄なようだ。スーパーに行けば、年中同じ果物や野菜が並び、「旬」はないし、日常の場面でも、日本人が夏にガラスの器でそうめんを食べ、冬には鍋を囲んで一家団欒といった、季節を食に反映させる自然との一体感を持たない。強いて言えば、夏に庭でバーベキューをするぐらいか。食器を変えるのは、感謝祭やクリスマスといった祝い事の時で、季節とは関係がない。

 

アメリカで「おふくろの味」といえば、それぞれの家庭の民族的背景が顔をのぞかせる。友人のメアリはスウェーデン系なので、祝日には「ルードフィフスク」というスウェーデンの魚料理を作るという。ふだん子供に料理を教える時間はないが、せいぜい親の作る味になじんで、自分でも作るようになるぐらいでしょう、と笑った。

 

食事のマナーは、口を開けてかむな、かみながら話すな、肘をテーブルにつけるな、といったところだが、人の皿の上に手を伸ばして、テーブルの上のものが取れないのは、「この皿の回りは私の領土」というアメリカ人の縄張り意識があらわになっていて面白い。

 

親が忙しさにかまけて家庭での食生活があまり期待できないとすると、子供にとって頼みの綱は学校給食だが、これまた眉をしかめざるを得ない。

 

我が家の冷蔵庫には、毎日の給食の献立が貼ってある。嫌いな給食の日には、派手にバッテンがつけてあって、娘が自分でお弁当を作って持っていく。ジェリー(ジャム)かピーナッツバターか、ツナサンドに好みのスナック菓子やジュースだ。毎朝学校で、その日給食を食べる人数を数える。給食代は20日分で22ドル。余れば返還される。メニューは、主食のチキンやホットドッグ、ポテト、ピザ、トーストにチップスやサラダが一品つき、そしてフルーツというところ。日替わりだが、魚は全くなく、サラダも月二回と食材はバラエティに乏しい。日によって、給食を食べる人数が変わるので、余った分は冷凍するか、翌日隣接している中学校に回すとか。

 

1ドル75セントを払えば、親も子供たちといっしょに給食を食べられると聞いて、カフェテリアに出かけていった。子供たちは、自動コンベアに乗せられたように1列に並び、フォークとお盆、そして食事を受け取り、思い思いのテーブルに着く。娘のテーブルには、その日のメキシコ風豆料理、チップス、カウボーイブレッド(シナモン入りパン)、オレンジ。隣の女の子は給食を食べたくないので、家からサンドイッチにバナナ、ジュースとキャンディをもってきていた。

 

それにしても驚いたのは、毎日給食も食べず、お弁当も持ってこず、ただキャンディだけ食べている子供がいることだ。給食はまずい、お弁当箱や茶色の紙袋に昼食を持ってくるのはクールじゃないから、が理由である。そして本当に恐ろしいことは、そんな子供に誰も注意をしないことだ。結局は、親の問題だからキャンディを持ってくるなと強制はできないという。

 

O157による死者を出した大阪・堺市で給食問題に取り組んでいる友人は、アレルギーがあっても食べさせようとする日本の給食神話を嘆いていたが、親からの信頼と権威を与えられないアメリカの教育は、無教養の人間を再生産するだけなのかと思うと、給食ひいては食生活すら教育の一環として捉える日本はすばらしいと思う。

 

アメリカでは、自然は人間が支配するものと考えがちだ。一方日本では、寒い地域で採れる食べ物は体を温める働きをするといった自然の恵みと奥深さをありがたく受け入れてきた。娘はさまざまな食材を色どりよく詰め合わせた日本のカラフルなお弁当を「恥ずかしい」と嫌う。赤、黄、緑とカラフルなことは、それだけ栄養のバランスが取れていることなのに。

 

家族揃って食べる回数が少なく、コンビニ食が普通になっている子供は「キレやすい」といった日本の報告を読むと、日本社会が追随してきた利便さを追求するアメリカの物・技術市場主義社会の只中にあって、日本の伝統の知恵と奥行きを伝えることが日本人の親の役目と思えてならない。