「リンカーンの国から」

 

(19) チャールストン: 義理の家族

 

 

 

リンカーンって、結局は、現代風に言えば、崩壊家庭で一種の虐待を経験しながら育ったようなものではないかと私は思っている。だから、自分も幸せな家庭を作れなかったのではないだろうか。幸せを知らなかったのではないだろうか。同じフロンティア生活といっても、「大草原の小さな家」とはえらく違うのである。

 

なぜリンカーンは父親をひどく嫌ったか。生い立ちに疑問があった。問題は実母のナンシー・ハンクスである。ナンシー・ハンクスの母親、ルーシーは、どうやら不倫?で、ナンシーを生んだらしい。ナンシーの父親は、どうやらバージニアでプランテーションを経営している金持ちの男だったらしい。(と、母親なら娘に語るだろう)私なんかは、リンカーンの卓越した才能と頭脳は、この名も知れぬプランテーション経営者の祖父から遺伝したものではないか、と思っている。とにもかくにも、リンカーンの父親トーマスは、このナンシーと結婚したものの、ナンシーの「ふしだらな」生育歴をどうしても受け入れきれず、つまり生まれが生まれだから、ほんとはリンカーンは自分の子供ではないのではないか、ナンシーは他の男と通じてたのではないか、といった疑いをもっていたらしい。

 

それで、リンカーンに愛情を注ぐというよりは、どちらかといえば「いじめ」のようなくらあい態度に出たらしい。他人の農場で働かせて、給金は父親が全部とりあげるという一種の「奴隷制」である。なぜ疑ったか。リンカーンが自分に似合わず、読み書きに興味を示して知的だったからである。リンカーンの父親は、フロンティアを生きる典型的な農夫であり大工だった。がっちりとした体躯で、質実、話し好きな普通の男だった。頭より身体を使え、がモットーだったのは、その頑固そうな顔つきにもあらわれている。リンカーンの本をとりあげたり、なぐったりという虐待をリンカーンは経験した。ナンシーの写真は残されなかったが、たとえ「ふしだら」だったとしても、リンカーンを生んだ母親には違いないわけで、神格化されたかのような美女としてのちに描かれている。女として興味があるのは、ナンシーさんも5フィート10インチの身長だったらしい。私と同じである。現代ですらいろいろ大変な思いをしたのに、18世紀終わりに5フィート10インチもあれば、どんな思いをしたことだろうか。

 

 リンカーンに関する資料を読んでいて、頭をひねるのは家族関係が非常にややこしいことだ。やはり人手が必要だったろうフロンティア生活では、複雑な家族関係をこなすのも技量の一つだったのだろうか。現代の核家族で育った私にはなかなか理解しがたいものがある。

 ナンシーの母親ルーシーとその妹エリザベスは、スパロー兄弟と結婚する。ルーシーはヘンリー・スパロー、エリザベスはトーマス・スパローとである。そして、不義の子ナンシーは実の母親にやっかいにでも思われたのだろうか、なぜか妹のエリザベスの家で育つのである。縫い物が上手で、客の家に泊まりこみで仕事をしているうちに、大工だったトーマス・リンカーンと恋をして、1806年に結婚。長女サラが1807年に生まれ、リンカーンが1809年、そして1811年に次男トーマスが生まれるが、乳児のときに死亡した。

Text Box:

 一家は1816年にケンタッキーからインディアナに引っ越すが、その時にナンシーの親代わりとなったトーマスとエリザベス・スパローもいっしょにひっこす。そして、たぶん彼らの子供、ナンシーの従兄弟になるデニス・ハンクスやジョン・ハンクスもいっしょだったはずだ。1818年、毒に汚染された草を食べた牛からしぼったミルクを飲んで、スパロー叔父叔母は死亡。ナンシーもまた34歳の若さで死んだ。

 

 リンカーンの父親はすぐにケンタッキーに戻り、ナンシーに会う前に結婚を申し込んだものの断わられたサラ・ジョンソンに再びプロポーズ、ナンシーが死んだ翌年の1819年には再婚、サラの連れ子3人、エリザベス、マチルダ、ジョンを引き受ける。トーマス41歳、サラ31歳だった。

 フロンティア生活ってこんなものか、と私が首を傾げるのは、リンカーンの義理の姉妹にあたるこのエリザベスが、リンカーンの実母の従兄弟、デニス・ハンクスといっしょになって家族を作っていることだ。エリザベスがわずか15歳のときだ、その二人のあいだにできた娘ハリエットは、のちにスプリングフィールドに出てきて、リンカーン宅に下宿、学校に行かせてもらったりしているのである。これって、リンカーンが義理の「孫」の世話をしたということになるのだろうか。家族関係がこうもつれてくると、何やらフロンティアって、とにかく女のいない男と男のいない女なら誰でもくっつけておけばいいやって感じかな、不倫も当然でしょ、という気になってくる。

 

 複雑な大家族のなかで、一人でも出世したのが出ると、そりゃもうさぞ大変だったに違いない。リンカーンの実父は文盲だったから、リンカーン宛てに金の無心をする手紙は、リンカーンの義理の弟になるジョン・ジョンストンが書いた。ジョン自身も80ドルの金の無心をしている。リンカーンは父親にはお金を送ったが、ジョンには、ちゃんと働いて稼いだお金と同じ額を渡すと返答、働かない人間を助けることはしないと告げた。このやり方は、現代でも、非営利団体が寄附金を集め、その額に相当する助成金が補助されるといった仕組みに見られることだ。さすがあ、リンカーン。

 

 父親の再婚相手サラの連れ子であるジョン・ジョンストンは、口ばっかり達者で働かない人間だった。その息子トム・ジョンストンは足が不自由で、かつ盗癖があった。1856年にリンカーンが、今のイリノイ大学シャンペ−ン校があるアーバナを訪ねたとき、時計を盗んだ疑いで牢屋に入っていた。すでにチャールストンでも銃を盗んだと疑われていた「義理の孫」トムを、弁護士リンカーンはこれで最後だぞ、といいながら、牢屋から出した。トムはそれ以後もけんかといった争いごとにはずっと巻きこまれたとか。このトムの弟、リンカーンにしてみれば「義理孫」の12歳のアブラハムを、スプリングフィールドのリンカーンの家に住まわせて、学校に行かせる話が出たりもしたとか。リンカーンがノーとでもいえば、このアブラハムの従姉妹に当たるハリエットが、メアリが次男エドワードを出産するまでの1年半ほどをリンカーンの家に滞在して学校に通わせてもらい、のちに、ほかの親戚に比べると、スペルの間違いもないダントツにすばらしい手紙が書けるようになっただけに、これまた「えこひいきだ」ともめたに違いない。

 

 そして何よりもこういうときに腹をたてはじめるのが「嫁さん」である。貧乏人と教育のない人間とは縁がなかったメアリにしてみれば、世話をしなければならない自分の子供がいるのに、なんでわけのわからぬヤツ、それも血がどこかでつながっている親戚ならいいけれどーハリエットはリンカーンと血のつながっているデニス・ハンクスの娘ー、なんで血のつながりがぜんぜんないジョンストンの世話なんかせにゃならんのよ、とさぞリンカーンに噛みついたに違いない。

Text Box:

 リンカーンにとって、自分の複雑な親戚は頭痛の種だったし、メアリにとっては侮辱だった。リンカーンが両親に送った金は親には渡らず、デニスやら親戚がもっているという手紙も来たりして、メアリはますますお金に対して偏狭になっていく。

 靴の修理屋だったデニス・ハンクスは、リンカーンがスプリングフィールドに移ったころから、チャールストンに住んでいた。リンカーンが大統領になると、このハンクスと、リンカーンの義母の連れ子の一人、マチルダの子の一人ジョン・ホールとが、誰が義母のめんどうを見るかでよくけんかした。1864年5月、ハンクスはワシントンまでリンカーンをたずねて、義母の世話の話をしたとか。ハンクスは1892年にチャールストンで車にひかれて死んだ。

 

 義母サラの連れ子の一人、マチルダの家がファーミングトンという小さな村に今も残されている。1861年、ワシントンに向かう直前、リンカーンが義母と最初で最後の父親の墓参りしているあいだに、町の女たちがマチルダの家においしいケーキやパイをもってき、ターキーやチキンを焼いたりして、リンカーンを歓迎したとか。マチルダは、最初スカイア・ホールと結婚、ジョン・ホールなど6人の子供をもうけたが、スカイア・ホールがどうなったのか、ルーベン・ムーアという男と1856年に再婚した。ムーアに連れ子が3人、マチルダの連れ子が2人(あとの4人はどうなったのか)、二人のあいだに結婚と同じ年に6人目の子供が生まれたが、結婚生活は幸せなものではなかったらしい。何やらできちゃった婚の感もあるではないか。1859年にムーアが死んだ時、マチルダは「勘当」され、のちに遺産相続権をめぐって訴訟もおこしているのである。

 

 チャールストンーイリノイ南東部にある人口40000人のこじんまりとした町のはずれに、古い墓地があった。あたりからは羊の鳴く声が聞え、馬がかいばをはんでいる。墓石が土にうずもれ、墓碑も消えかけている墓ばかりの中をしばらく歩き回り、奥まったところで見つけた。デニス・ハンクスの名も消えかかった古い墓には、妻エリザベスとリンカーンに学校にやってもらった娘のハリエットの名も刻まれていた。なぜ見つけられたかというと、そばにえらく光っている立派な墓石があったからである。デニス・ハンクスと妻エリザベスのである。近年になって特別に建てられたに違いない。「リンカーン」の親戚となると、たとえリンカーンの大きな悩みの種であったとしても、永遠に不滅なのである。