リンカーンの国から

 

(49)ディベートその後

 

 

1858年10月15日、アルトンでの最後のディベートが終わると、二人は疲れきって家に帰っていった。ダグラスは、個人貸切の車両と大砲を載せた車両に垂れ幕を飾り、美しい妻に付き添われ、多くの秘書に速記者、支持者たちを随行させ、 白いつば広の帽子に、ラッフルシャツにぴかぴか光るボタンのついた黒っぽいコート、薄いズボン、そしてよく磨かれた靴という「プランテーション・アウトフィット」のいでたちという豪華旅行だったが、やっぱり疲れただろうなあ。汚れた靴でも気にならなかったリンカーンのほうは馬に乗り、列車の普通席やら、不快なワゴンに座りして、州をくまなく旅行、どんな小さな村やら街角やら、町の集まりという集まりには出かけて行ってスピーチをした。6月16日、州都スプリングフィールドで、州議会の下院で開かれたイリノイ州共和党大会で、連邦上院議員候補に選ばれてから、リンカーンは、少なくとも63回は演説をしたといわれている。有名人とディベートすることで、リンカーンは自分の名前を売り込んだ。新聞記者たちは必死でディベートを書きとめ、ディベートの内容は、ケンタッキーや南北カロライナ、ニューオーリンズ、ジョージアなど、南部の多くの新聞がとりあげたために、全米がディベートの行方に注目していた。

Text Box:

戦略家リンカーンは、カンサス準州の憲法をめぐって、ダグラスが民主党のブキャナン大統領と対立し、南部から支援が得られなくなっていることを知っていた。うまくやれば、民主党を分裂させられる。共和党は奴隷制を道徳的に悪と考えるを強調して、ダグラスの奴隷制に対する"無関心"方針との差を明確にし、住民自治というえさの矛盾を突こう。リンカーンは戦略の限りを尽くした。もう何もすることがなかった。「天命を待つばかり」とはこのことだろう。

 

投票日は11月2日。夜明けから雨が降り続く寒い一日だった。が、それにも関わらず、多くの人が投票場に出かけ、投票した。といっても、人々が、直接的にリンカーンかダグラスに投票したわけではない。現代の大統領選挙における、全国党大会への代議員候補を選ぶ予備選挙のようなものだ。人々はまず共和党か民主党か、党を選んで投票した。リンカーンはダグラスより4000票多く個人票を獲得した。が、州議会は民主党が握っていた。州南部を支配する民主党は、自分たちに有利になるよう選挙区を改変、現代の予備選挙で人口に応じて代議員数を割り当てるようにして、ダグラスを有利に運んだ。1959年初め、最終集計により、州議会における党勢力は民主党54、共和党46となり、イリノイ州議会は、イリノイ選出連邦議会上院議員にダグラスを選出した。政治とはこういうものか。正しいことを言っても、勝つとは限らないのである。なんという水物。。だから嫌いである。(笑)友達がなぐさめようと家に立ち寄ると、リンカーン曰く、「なあんか自分は、つまさきを刺された小さな男の子みたいだ、泣くには年がいきすぎてるが、笑うには痛すぎるよ。」

 

古い友達への手紙には、「I am glad I made the late race.  It gave me a hearing on the great and durable question, of the age, which I could have had in no other way; and although I now sink out of view, and shall be forgotten, I believe I have made some marks which will tell for the cause of civil liberty long after I am gone. 」と書いた。いっときの勝負には負け、自分の政治的生命はもう絶たれたとその時は思ったかも知れないが、自分のエゴーつまり名誉やら社会的地位ーを越える眼をもち、自分の仕事が後世に残るものであることを自覚し、自分の美学を持っていたことが、やはりリンカーンの偉大さにつながっていくということだろうか。

 

その時の勝負には負けても、ディベートの結果、リンカーンは全国で知られるようになり、北部各地でスピーチを頼まれるようになっていった。ダグラスはそのうち大統領選に出るだろうと踏んだリンカーンは、ダグラスが演説したところでは、自分も演説するようにしたのである。負けん気強いね、リンカーンさん。(笑) ディベートでは勝ったのに、党利策略で負けたとなると、こうなったら、やれるところまでやってやれ、と意地になっていたのではあるまいか。秋になると、第8巡回裁判所の裁判官としての最後の巡回裁判旅行をすませてから、9月16−17日にはオハイオ州のデイトンやシンシナチ、コロンバスで演説、9月30日から10月1日はウイスコンシン州ミルウォーキーやらベロートにジェーンズビル、12月にはカンサス州に入って、準州の選挙演説に立ち会っている。

リンカーンはダグラスを、llibertyの恐ろしい敵と見なし、ディベートの時と同じような演説を続けたが、内容はさらに練りあげられていた。たとえば、ディベートでは一度も取り上げられたことのなかった経済的自由(economic freedom)の問題をとりあげたりした。全国を遊説して回り、リンカーンの名前はますます知られていくようになる。戦略家リンカーンは、後ろからメディアに手を回し、味方につけ、簡単な自伝も頼まれるままに書き、翌年、シカゴで開かれる共和党全国大会に向けて、精力的な活動を始めていた。翌1860年は、いよいよ大統領選挙の年である。