神戸へ、母へ

 

今、26年ぶりに神戸に住んでいる。1年に一度は帰るようにしていたが、昨年の早春、母が倒れてからは、1ケ月半に一度ぐらいの割合で太平洋を往復した。が、いよいよ母とともに過ごせる時間も残り少なくなり、今しかないと、思いきって休職して、神戸に戻ってきた。そして毎日、母のいる老人ホームで半日を過ごす。ホームの一室の窓から眺める季節ははや一巡して、今2度目の秋を迎えている。

 

26年前、私が神戸を離れたころは、日本はバブル全盛期に向けて全力疾走していた。世界で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称賛される一方で、「うさぎ小屋に住む」と揶揄された日本。アメリカの不動産を買い漁る日本企業の影で、中国人が日本人と間違われて殺される事件が起きる時代だった。

あれから四半世紀が過ぎて、アメリカも日本も大きく変わった。神戸も、そして実家の二階の窓から眺めるジェームス山も。

 

50年以上、親のちっぽけな家を見下ろしてきた小高い丘には、年中木々がこんもりと茂っていた。一面の緑のところどころに、1ケ月の賃貸料はホテル住まいより高いと聞いたことがある、赤や青の洋館の屋根や壁が浮かんでいた。

私が小学生のころ、日曜の夕方になると、ときどき父と母の三人で、急こう配の坂を上って、ジェームス山を散歩した。子供心に、そこはまったくの別世界だった。丘を走る道は、丘の下では考えられないほど幅広で、きれいに舗装されていた。下界では、タクシーがUターンできない細い道がくねくねと続き、人は苦労して車の横をすり抜けて歩いているというのに、丘の上は、いつ歩いても人の姿はなかった。小さな家から毎日ながめていた洋館は、そばまで来ると、高いフェンスと美しい植え込みの庭に囲まれてほとんど見えなかった。

いったいここにはどんな人が住んで、どんな生活をしているのだろう。子供心に不思議でならなかった。

ある夜のこと、父が「おみやげ」と言って、一度だけ真ん中に穴のあいた外国のドロップを手渡してくれたことがあった。一口食べて、まずう、と声をあげ、それっきりとなってしまった。香料が強すぎて、食べられなかったのである。「向こうの人は、こんなもの食べてるんや」と、父が残念そうに言ったその声が、今も私の耳底で響く。

私が生まれ育った港町、神戸。30年ものあいだ、「向こう」に対する憧れと違和感、時には侮蔑といった二律背反的な気持ちを日常の身体に刻みつけて、私はアメリカに渡った。

あれから26年。「向こう」には、もう憧れや侮蔑どころか、何も感じなくなってしまった私。毎日、老人ホームから戻ると、実家の片づけをして夜を過ごす。震災の前年に、道で倒れてそのまま還らぬ人となった父の服、写真、亡くなったときにもっていた財布。。。戦時中の物のない時代に育ったから、が口癖で、父の死後17年間、ひとり暮らしだった母が大事に守ってきたものを、私は容赦なく捨てる。母の夏服も捨てた。母が再び身につけることは決してないものである。日々、目に見えないほどわずかずつ、が、確実に朽ちていく肉体の行方を自分に納得させるようにして、私は家にしみ込んだ母の声と姿をまさぐり、84年の人生を想像し、長い親不幸を詫びながら、母も私も慣れ親しんできた物を毎日1つずつ捨てていく。それは、この家が記憶する若かった私自身を乗り越える作業でもある。

 

去年の春、母が最初に入院した時、なんで医者にかからなかったの、と問うた。すると母は、あんたにはここしか帰ってくるところがないんやから、と答えた。どんなことがあっても私に寂しい思いはさせたくない、私がいつ帰ってきてもいいように、いつも家にいてやりたいと考え、あえて医者を避けたかのようだった。そう、私には、神戸しか帰るところがない。どんなに意地を張っても、母のところにしか帰るところはなかった。

 

アメリカで、私は自分を、日本人ではなく、”神戸人”とよぶ。前を向き、人生を切り開いていく力の源は、身体に刻みこまれたものにあるからである。私の核は、故郷神戸の風土であり、親が身を張って教えてくれた子供時代の経験と記憶である。が、現実には、故郷は変わり続ける。記憶にある故郷に戻ることは決してない。過去には戻れない。 

 

神戸に戻ってきて2ケ月ほど経ったある朝、40年ぶりぐらいだろうか、ジェームス山の急こう配の坂をのぼってみた。坂の両側に広がっていたこんもりとした緑はきれいに切り倒され、坂ののぼり口に建てられた老人ホームの高いコンクリート壁が続く。息をきらせながらのぼった急坂は、手すりのついた、黒く高いフェンスに挟まれた長い階段となり、フェンスの向こうは雑草が生い茂る平坦な造成地に変わっていた。

そして、昔、坂をのぼり切ったところに開けていた広い三叉路の道も、高い木立に囲まれた洋館も、鬱蒼とした緑の世界のすべてが消え失せ、私の頭上には青空がまぢかに迫り、ただただまぶしかった。

 

ああ、別れとはこういうことかも、と自分に言い聞かせ、後ろを振り返ったその瞬間、私は息をのんだ。眼の高さに、1本の水平線が真横に長く伸び、朝日に輝く銀色の太い帯となって空を押し上げていたのである。帯のそこかしこに、船の黒い影が浮かんでいた。かつて、緑の壁のはざまで小さな三角の形に顔をのぞかせていたあの海が、変わらぬまま、そこにあった。「私の神戸だ」そう実感したとき、思わず涙がこぼれた。思いもかけず、大きな喪失感がこみあげてきたのである。父の突然死も震災もたった一人で乗り切った強い母だった。いつまでもいてくれるものと微塵も疑わず、安心しきっていた母の存在が、今、この世界から、神戸から消えようとしている。目の前に突然あらわれた“永遠”という無限大の距離がたまらなく怖かった。

 

海を見つけたその朝から、私は毎日ジェームス山にのぼる。そして、海を凝視し、祈りをこめる。ゆらゆらと、この水が流れついていくはるかかなたに、アメリカがある。海岸線から遠く離れたアメリカの地に戻るのもそれほど遠い先のことではない。地平線まで続く、見渡す限りのとうもろこし畑を風が吹き渡るとき、その風にのって聴こえてくるだろうか、遠い昔、塩屋の浜の波打ち際で、裸足で戯れたあの波の、穏やかに静謐な打ち返しの音が。

私の神戸へ、母へ。ありがとう。