コンチネンタル航空国際線機内誌「パシフィカ」

"3万フィートのエピソード"

 

 

1997年12・1月号掲載

 

「化粧」

 

 

フライトアテンダントが、食べ残しの散らかったトレイを、手際よく片付けはじめた。もうすぐ映画の上映が始まるらしい。食事をすませ、真弓の隣で手持ちぶさたに機内で上映する映画紹介のパンフレットを繰っていた順一が、何気なく真弓に声をかけた。

 

「今日の映画、昔、君が好きだった俳優が出てるやつじゃないの。よかったね」

「へえ、ほんと?」

 

思いがけない偶然に、かすかに心をときめかせながら、真弓もそのパンフレットに目を走らせた。確かに昔、毎日映画館に通いつめた""が出ている映画だ。懐かしさに一瞬心がゆるみ、ふっと奇妙な敗北感が真弓の心にしのびこんだ。

 

6年前のある夏の夜、真弓は夫順一との乾ききったすれ違い生活から逃れるようにして、台湾北部の港町、基隆に一人降り立った。機械的で、無味乾燥したアメリカの空気に長年さらされてきた真弓の身体は、その夜、まるでむさぼるかのように、南国のぬめったエネルギーとカオスの解放感に浸っていた。

 

気ままな一人旅だった。毎日通りをぶらつくだけで、1週間もたっただろうか。ホテル近くの工事現場で、日焼けして真っ黒の裸の上半身を強い陽射しにさらし、泥と汗にまみれながら働く男たちを真弓を見続けた。そのうち、真弓の心が妙にささくれだってきた。彼女は「美しさ」に渇していた。しっとりと、ゆったりと心なごむ「美しさ」に。。。

 

真弓が映画館で""に出会ったのは、そんな時だった。白人と中国人との混血で、端正さとエキゾチックの入り混じった美しい顔に、真弓の心は小躍りして、映画館に通いはじめた。

 

毎日通った。2日、3日、5日。。。やがて、どこで「彼」がどんな顔をし、何を言うかも全部覚えてしまった。それでも通った。それも化粧をして通った。いつのまにか真弓は、映画の中の男に「会い」に行くためだけに、化粧をするようになっていた。

 

10日ほど通いつめると、「彼」は急にいなくなった。真弓ががっかりして映画館を出ると、すれ違う男たちの小さくも、ひきしまった裸の胸からすっきりぬめりが消えていた。

 

あの時の「男」にもう一度再会するー。真弓はつぶやき、順一の顔を見上げた。

 

この6年、何も変っていない。夫が暫くの間、浮気していたのも知っている。が、見て見ぬ振りをしていた。取りたてて騒ぐには、真弓はとっくの昔に夫に興味を失っていた。6年の歳月を、彼女はただ流れるままにやり過ごしてきたー。

 

すでに順一は、無表情な顔をまっすぐスクリーンに向けている。長年見慣れているはずの夫の頑なな表情が、その時なぜか真弓の心をふいにかき立てた。真弓は、夫の挑戦を受けて立つかのように、無意識にハンドバックの底をまさぐり、長い間使っていなかった口紅を取り出していた。

 

スクリーンに「彼」の名前を見つけたときだ。真弓は思い切って、化粧っけのない顔に、古い口紅をひいたー。その時、真弓の口元からもれた奇妙な微笑は、暗闇の中にいつまでも光っていた。

 

 

 

 

 

 

1998年4,5月号掲載

 

「電話」

 

 

突然、飛行機の到着が予定より30分ほど遅れるというアナウンスがあった。

すると、恰幅のいい体躯をかちっとしたビジネススーツに包んだファーストクラスの男たちは、一斉に上着の内ポケットからクレジットカードを取り出した。目の前のスロットに、カードをすべらせたかと思うと、大慌てでプッシュホンの番号を押し始めた。

 

瞳の隣の男は、50代も後半にさしかかった白髪まじりの男で、前に大きく突き出た腹をゆすりながら、早口でまくしたてている。

 

「この調子でいくと、コネクトフライトを逃すから、あっちにつくのは真夜中すぎかもしれない。航空会社を変えてもいいから、可能なフライトを調べてくれないか?」

 

南国への出張から一人帰国途中の瞳には、連絡をとるべき秘書も、彼女の帰りを待ちわびている恋人もいない。隣の男のあわただしい口調に、かすかな嫉妬を覚えた瞳は、奇妙にわびしくも打ち消し難い強い衝動にかられて、思わず押しなれたその電話番号に指先の力をこめた。

 

去年の冬のことだ。1ケ月の旅行から帰ってきたホセは、驚いたように瞳に言った。

 

「1ケ月で80もメッセージが入っていた」

 

「そう」 瞳は何げなく答えて、知らん顔をした。

 

瞳は、ホセの男とも女とも区別のつかない声が好きだった。はじめて話したのが電話で、最初から2時間もしゃべりこんだときから好きだった。

 

そのうち瞳は、ホセの声が聞きたくて電話をかけ始めた。留守番電話に録音された、同じ言葉を繰り返すホセのその声が、瞳の頭の中でぐるぐる回り始めるまでかけた。時々不意にホセが電話をとると、瞳はあわてて切った。瞳はわざわざホセのいない時間を狙ってかけるようになっていた。

 

今もそうなのかしら。受話器を握ったまま瞳は一人ごちた。だが、電話の向こうに、もうホセのかすれた声は聞えない。女の機械的な声が事務的に、ホセの名前を言うだけだ。瞳は黙って、受話器を椅子の背に戻した。

 

南国の同じ空の下で、ホセには電話のことなどおくびにも出さず、ただの友達を装って、無邪気に笑っていた。その頑なさが自分でも空しい。もう電話はするまい。そう自分に言い聞かせて、瞳は何気なくコートのポケットをまさぐった。でてきた小さな紙切れには、見知らぬ電話番号が書いてある。どこでもらったのか思い出せない。電話は目の前である。かけてみるのも面白いかも。肩をすくめてくすっと笑った瞳の目に、隣の男の視線がとびこんできた。

 

「ハッピー」 男の問いに、瞳が素直に頷くと、男は「グッド」と笑って、満足げに目を閉じた。

 

 

 

 

1998年8,9月号掲載

 

 

「背広」

 

 

 機内にはひんやりとした空気が漂っていた。オフシーズンだったせいか、ジャンボ機の客室のあちこちに、空席が目立つ。洋子は、機内の中ほどの席で、前方から押しかぶさってくるエンジンの轟音にじっと身をゆだねていた。

 

 ふと、席ひとつおいて隣に座っている男が、自分の方をちらちら見ているのに洋子は気付いた。何がそんなに気になるのだろうと、洋子も自分の身体に視線を落として驚いた。無意識のうちに機内の空気に反応してしまっていたらしい。身をすくめ、腕組みをし、脇の下で両手を暖めているのだった。

 

 「僕の背広をお貸ししましょうか」

 

 何気ない男の声が聞えた。洋子はつと頭を上げ、男をまっすぐに見た。30代半ばくらいだろうか。身なりのいい、どこかキザという言葉が似合いそうなやり手のビジネスマンらしく、言いなれた口調が一瞬冷気にはりついた。

 

 男の優しい言葉に、洋子は本能的に

 

 「ああ、ありがとうございます。でも結構です。私、大丈夫ですから」

 

 と、そっけなく断わった。

 

 「本当にいいんですか」

 

 男は念を押した。

 

 「はい、大丈夫です」

 

 すると男は、所在なさげなその背広を、洋子との間の空いた席に放り置いた。

 背広が確かに自分から離れているのを確認してから、洋子は目をつぶった。

 

 あれは、好きだった同級生の優と、場末の3本立ての映画館に入ったときのことだった。たて続けに古いフランスの恋愛ものを3本、二人はただぼんやりと、ひたすら映し出される男と女のたわいない姿をおいかけていた。

 

 そのうち、何かが洋子の足に触れ始めた。時々動く。そのたびに洋子も、まるで応えるかのように、無意識に足を動かしていた。ちらっと下を見て、触れているのが、優が膝に置いた皮のジャケットだとわかった。優が足を動かすたびに、ジャケットも動いて、洋子の足をまさぐる。しばらくして目の片隅に、優も足元を見やったのが映った。が、その時の洋子には、優に声をかける勇気もなく、何も気付かなかったかのように、まっすぐスクリーンを見上げていた。

 

 「まだ16だったかなあ。。。」

 

 そんな自分の声に、洋子はそっと目を開けた。

 隣のビジネスマンは何事もなかったかのように、灯りをつけて、機械的に経済誌のページを繰っている。手元に照射された強い光の反射に浮かんだ顔が、かたくななまで無表情だった。

 

 その閉ざされた横顔に、なぜか突然いとおしさを感じた洋子は、思わずいつになく優しく男に声をかけていた。

 

 「ご出張ですか、ご帰国ですか」

 

 男は驚いたように雑誌から顔を上げると、つまったように答えた。

 

 「出張です」

 

 「そうですか。大変ですね」

 

 洋子は親しみをこめて微笑んだ。

 二人のあいだに、背広は置かれたままだった。