「いのち」

 

ある日、日本語新聞の片隅に出た短い見出しに、目が釘づけになった。「農村に住みたい4割、でも少ない定住希望」とある。ある財団が東京首都圏の人間を対象に行った、「村づくり」アンケート調査の結果を報じた小さな囲み記事だった。記事を読み終えて、神戸に生まれ育った私は一人微笑んだ。私だって農村に住みたいと思ったことは一度もなかった。ましてや住むことになるとは夢にも思わなかった。

 しかし、7年前、ひょんなことで、私の生まれて初めての田舎生活が始まった。アメリカ中西部、過疎のプレーリーに囲まれた刺激のない暮らしに、私は毎日口をとがらせていた。が、いつのまにやら、田舎に住んでいるからこそ、私の中で新しい何かが生まれていることに気づきはじめた。

 自然ー私がこの言葉を、これほどまでじっくりと厳粛に受け取ったことが、かつてあっただろうか。6月の雪も、ゴルフボール大の雹が吹き溜まりをつくる激しい夏の嵐も、瞬間に天から地へ垂直に切り裂き走る稲妻も、そして空に異様な模様を描く竜巻も、みんな自分たちの好きな時に大威張りでやってきて、人間をひれ伏させてしまう。人はただひたすら、空を見上げ、嵐が過ぎ去るのを待つ。

 ここでは、天気だけが変る。自然を前にして、人は無力だ。都会では、コンクリートの舗道に響く自分のハイヒールの足音と、自分の横を足早に過ぎていく人の群れの中にしか自分が見出せなかった私。その私が今、このプレーリーの真ん中で、大自然の日々の営みと気まぐれを、毎日飽きずに見守っている。そんな自分の姿に、私はふと、自分の身体がこれまで何をひそかに求めてきたかを、そっと垣間見るような気がするのだ。それは、いのちへの回帰ともいえるものかもしれない。

 夏の夕方5時、照りつける陽射しもなんとかしのげるころ、私は庭に出て、雑草抜きをはじめる。スコップの先で、芝にとってかわろうと地中深く根を伸ばした雑草をよりわけ、満身の力でひっこぬくのだ。土をいじり、草という生き物に触れていると、なぜか心が素直に安らいでいく。父が退職後どうして畑仕事をはじめ、命を落とすまでのめりこんでいったのか。

 

父は野菜づくりに熱中する気持ちを、「自分が世話をしてやればやっただけ、野菜は素直に育つ。それがかわいくてたまらない」と母に語っていた。私は硬骨漢の父に反発し、ほとんど話をすることもなく結婚、アメリカに来た。年に一度は帰国し、顔を見せてはいたが、心を開いて話をすることは決してなかった。父が野菜にかけた思いは、遠く離れてしまった私への寂しさ、あきらめだったのか。

 父の畑で聞いた、近所の人の淡々とした声が今も聞えてくる。

 「お気を落とされぬように。野菜もね、みんな毎年、花をつけ実をつけて種を作り、後に子孫を残したと思ったら、自然に枯れていくのですよ」と。9月、木々は早くも葉を落とし、冬支度に入っている。まもなく凍りついた冬がやってくるのを知っているのだ。

 

 12月、ある夜の10時すぎ、私は仕事を終えて建物の外に出た。気温零下25度という、人間の生死すら賭けた凍てついた冬の夜に人影はない。街燈のにぶいオレンジの光を受けて、樹氷がぼんやりと薄闇に浮かんでいる。霧が樹氷の回りを漂っているのが見えた。あまりにも幻想的な美しさに、私は一瞬、このままこの膚を突き通す冷気に身を任せられたら、と思った。そして、畏怖の心で冬枯れの木を仰いだ。

葉をすべて落とし、裸の幹を厳しい寒風に、深い雪にさらしてもじっと耐え、いのちを育てるかけがえのない力を内にしっかりと守りつづけている冬枯れの木になりたいと思った。人間の醜いエゴや欲のすべてをそぎ落とし、身を飾るすべが何一つなくなっても毅然と立ち、凛とした裸の枝えだを思いっきり広げて、くっきりと鮮やかに黒い線画を自由自在に描くことができる冬枯れの木になりたいと思ったのだ。

 

 父を失った喪失感と、日々成長し、私から離れていく娘への一抹の寂しさは、日増しに大きくなっていく。が同時に、私は自分がだんだん小さくなっていくのを感じている。そして、少しずつ大自然に取り込まれ、私の中の喪失感や寂しさが、やがて自然の懐と重なりあう時、私の後に続くいのちー娘をしっかりと守ってやれるような、そんな気がしている。私は今、プレーリーの厳しい冬が大好きである。零下30度の凍りついた大気の中でも、新しいいのちの季節ー春を待つことができる冬はとめどなくいとおしい。