「イリノイ探訪」

プレーリー・ドウ・ルシェール

 

 

ちょうど朝からの雨が上がったところだった。プレーリー・ドウ・ルシェールというフランス語の村の名に心を躍らせながら、しっとりした新緑に囲まれた誰もいない細い道を、車を西へ、ミシシッピ川に向けて走らせた。薄くもやのかかったような一面の朝の緑は優しく、中世ヨーロッパへのタイムスリップはこんなものかと思わせる風情があった。

 

と、突然、緑の壁がさああっと広がって、石の建築物がひょっこり道の左側に現れた。霧まじりのうっすらしたベールにまとわれた石の建物は、砦というよりは、ロマンチックな古城のような雰囲気があった。雨上がりのつややかな空気に触れた、石の遺跡の冷たくも深い、その清廉さが好きで、ここにずっといたいという情念のようなものが内にわきあがってきた。するとふいに、かつて訪ねたメキシコのチチェンイッサ遺跡やインドのエローラ遺跡での時間がよみがえってきた。チチェンイッサでは、石の世界の静謐さに飲みこまれたような私の様子に、ガイドのお兄さんが、「一人になりたいんでしょ。2時間後に戻ってくるから」と仕事をほっぽり出して、雲隠れしたほどだった。

 

 

 

 

 フランスは、1673年から、ミシガン湖やスペリアル湖周辺からオハイオ、ミズーリ川にかけてのイリノイカントリーを領土とし、カナダから統治した。毛皮や貴重な鉱物資源が目的だった。「ニューフランス」の長官の命令を受けたカナダ・ケベック生まれの若い毛皮商人ルイ・ジョリエットとジェスイットの宣教師hジャック・マルケット神父が、ウイスコンシン川からミシシッピ川に入り、流域の探検に乗り出したのが1673年である。それから9年後の1682年に、フランス生まれの探検家ラサールがミシガン湖からイリノイ川、そしてミシシッピ川に入り、ジョリエットたちが到達した地点を超えて川を下り、4月9日メキシコ湾に到達、河口に十字架を立て、ミシシッピ川流域をフランス領土とした。

 

 ルイジアナにニューオーリンズができたのはそれから四半世紀が過ぎた1718年で、この年にフランスはアメリカ領土を再編、イリノイカントリーはアッパールイジアナと呼ばれ、ニューオーリンズに置かれたフランス植民政府によって統治されることになった。が仕事はまもなく、ルイ15世が後ろ盾となった西インド会社に引き継がれた。西インド会社には、貿易をはじめとして、砦やトレーデイングポストの管理、人事が任されていた。同年12月、軍人や役人、会社関係者、鉱物エンジニア、人夫、兵隊たちがイリノイカントリーに派遣された。人々は、カスカスキアの北18マイル、マスキット銃の銃弾がミシシッピの川岸に届くところに木の砦を作り、フランス王の息子、ルイ・ドウ・シャ−ルツの名前をつけた。砦は1720年に完成、いくつかの建物が建てられた。西インド会社が使った貯蔵庫や事務所、フランス政府関係の事務所などがあったと見られるが、たびたびの洪水のために、すぐに朽ちてしまった。

 

 その後、フォート・ドウ・シャ−ルツと名づけられた砦は3つ作られたが、現在再現されているのは1754年ごろに完成した最後のものである。以後、1765年に英国軍が入場するまでの10年ほど、フォート・ドウ・シャ−ルツはフランスのイリノイ支配の中心地となった。

 

 西インド会社は、1731年にすでにこの地を去っていた。期待していたような金などの鉱物資源が発見できず、インデイアンたちともいい関係が作れなかったからである。しかしフランス政府は、ミシシッピにおける自分たちの権益を守るために石の砦を作った。イリノイカントリーは防衛や貿易に有利、かつすでにガリーナで鉛が発見されていた。その上、肥沃な川土がルイジアナの食料庫になっていたからである。

 

 砦を作るライムストーンは、1722年に作られたプレーリー・ドウ・ルシェールから運ばれた。名前の意味は、岩に囲まれたプレーリー。周りが崖に囲まれた肥沃なプレーリーだったからである。それゆえこのあたりは、フランス植民地の中でも主要な農業地域となり、穀物はミシシッピを下ってニューオーリンズ、そしてフランスが統治するカリブ海の島々に輸出されていったという。

 

砦は、残されていた見取り図によると、正方形の外壁に囲まれ、4つの角には見張りの塔があった。中には左右対称に4つずつ建物が並んでいたと見られている。再現された建物の1つに入ると、2階には小麦粉らしき麻袋が積み上げられていた。袋には、フランスの象徴、ゆりの花の紋章が入っている。

 

 

 

 

 あたりに何もない緑1色の平らな土地が、フランス、スペイン、英国というヨーロッパ列強の覇権争いに巻き込まれ、国際的地位を得ていたわけで、さぞかしフォート・ドウ・シャ−ルツの仕事は忙しかったんだろうなあ、とひとりごちながら、思わす笑ってしまった。忙しかったといっても、一体何人の人間がこのイリノイカントリーに住んでいたというのだろう。

 

 1726年のイリノイカントリーの総人口は512人である。(カール・エクバーグ著「フレンチ・ルーツ・イン・イリノイカントリー」イリノイ大学出版局150ページ) もちろんインデイアンは数えられていない。1752年の人口調査によると、フォート・ドウ・シャ−ルツの人口は、白人男性33人、黒人男性35人、白人女性41人、黒人女性25人、インデイアン男性13人、インデイアン女性23人となっている。(前著152ページ) 黒人とインデイアンは奴隷である。

 

 フォート・ドウ・シャ−ルツの司令官たちの仕事の一つは、村の農業問題や住民からの要求に対処すること、つまり土地を最大限に有効利用したり、共有の森や平原へのアクセス権を人々に平等に与えるための法や規制をつくるといったことだった。フランス人たちの農業形態はコミューン、つまり共有財産の観念をもったオープンフィールドが特徴である。つまり、アメリカ人の個人の権利にもとづく土地所有ではなく、土地は基本的にコミュニテイが管理するものと考えられた。貧しい土地は共有地となり、家畜が放し飼いされた。

 

 1755年からの7年戦争、別名フレンチインデイアン戦争の結果、フランスは、ニューオーリンズをのぞいたミシシッピ川の東岸の領土を全部英国に渡した。砦もその一つだが、オタワ族のチーフ、ポンテイアックに率いられたインデイアンたちが英国の支配に反対、反乱が続いたため、英国はその後2年間、フォート・ドウ・シャ−ルツを手に入れられなかった。トーマス・スターリング・キャプテン率いる第42歩兵隊に、フランス人のセントアンジュ司令官からついに砦が引き渡されたのは、パリ条約から2年後の1765年10月10日だった。

 

 

 砦は、カベンデイッシュと名前を変えたものの、英国はあまりこの砦を使わなかった。フランス人住民の協力も得られず、英国はここではあまり存在感がなかったようだ。やがて、川による侵食が激しく、1771年には廃棄を決定、1820年までに砦は沈みはじめて、1900年までにはすべては川に沈んでいたという。現在、火薬庫だけが1756年に作られたオリジナルとして残っている。現代でも砦の受難は続いた。1993年の大洪水では、再建された建物全体が1ケ月ものあいだ水に浸かっていた。

 

 1778年のアメリカ独立戦争で、クラーク将軍たちがカスカスキアを英国から奪還、イリノイはアメリカのノースウエスト領土の一部となった。1790年、アメリカのセントクレア知事が到着、フランス人たちは、財産相続などフランスの慣習を維持することや宗教の自由を与えられた。が、そのうちフランス人たちもアメリカの法制度に慣れねばならず、言葉は大きな障害となったそうな。何人かのフランス人は、英語がわからないために、陪審員の義務を免除されねばならなかったというから(フランケ著「フレンチ・ぺオリア・アンド・ザ・イリノイカントリー」44ページ)、いつの時代も非英語人のこの国での苦労は変わらない、と本を読みながら、私は思わず苦笑した。

 

 この地を訪れたアメリカ人たちは、「フランス人たちはモラルが高く、いっしょにいて楽しい、ワインを飲み、ダンスをし、パーテイ好きだ、隣人かつ友人のインデイアンたちと仲良く暮らし、文明世界から切り離されていても、非常に洗練されていて、たとえ荒っぽいハンターでも、パーテイではエレガントに振舞うことがでkる」と記録に残している(フランケ著45ページ) フランス系の人々が生活したフロンテイアには、殺人といった犯罪はなかったという(261ページ)

 

 これに対し、フランス人はアングロアメリカ人のことを、血気盛んで暴力的、法を守らず、酒飲みだと見ていた(258、261ページ) マーク・トーウエンが描いたハックルベリー・フィンが活躍するミシシッピ川の冒険談は、フランス人が去ったあとのアングロアメリカの世界である。アメリカ人が自負する自由の精神は自信過剰と表裏一体で、個人間の競争心や反発心から暴力ざたも多くなるというわけである。

 

 

 つくづく思う、フランスが英国に勝っていたら、今この国はどうなっていただろう、と。東京練馬区で農業を営んでいる人が言っている、「土地は預かっているものであって、みんなで共有するものです」(「オルタ」2003年7月号3ページ) インデイアンもフランス人も、そして日本人も理解する土地に対する思いである。理解できないのはアメリカ人だけではなかろうか。

 

 かくいうフランス人たちも、1820年頃には、政府に没収された彼らの土地を返してくれ、とアメリカ政府に要求した。アメリカ社会に同化したフランス系2世の仕事ではなかったか。最後の要求は1867年に出された。そして、弁護士時代のアブラハム・リンカーンも、1850年代にこの土地返還要求訴訟に関わり、文書を残している。

 

今、人けのない砦の石の世界からたちのぼってくるのは、300年も前にフランス人たちが身体とともにこの地に運んできたヨーロッパの社会主義的思潮の萌芽の残像である。私は一人石の上を歩きながら、その残像は、今も国民の不安を煽り戦争に明け暮れる、暴力好きなこの国の新しい可能性につながるのでは、と、そんなせんなきことをしばし想ったのだった。