「イリノイ探訪」

ベルヴィデイア

 

 デカブから北西へ車で30分。90号線沿いにベルヴィデイアの町がある。人口は約1万9000人(1996年)、白人が93%を占めるブーン郡の小さな町である。

 

 ブーン郡の名は、西部開拓初期の時代を生きて、ケンタッキーを「発見」したと言われるダニエル・ブーンにちなんでつけられた。ブーンは、1799年当時スペイン領だった(1801年からフランス領)ミズーリ地方にやってきて、ミズーリ川の北に広大な土地を得、その地で治安判事を務めた人物である。(亀井俊介著「アメリカン・ヒーローの系譜」78ページより)

 

 西部開拓が進み、ベルヴィデイアの名は、製粉工場建設のための投資会社「ベルヴィデイア・カンパニー」からとられたものらしい。19世紀中ごろのことである。このベルヴィデイアで生まれ育った有名人の一人が、30年にわたって、1890年代の発明王、トーマス・エジソンの右腕となったシャーウッド・サム・モアとか。ベルヴィデイアの商工会議所から送られてきた町案内には、「ダニエル・ブーンの西部開拓精神を象徴する、自由で想像力をかきたてる豊かな大地は今も健在である。」とあったが、老眼に鞭打ってハンドルを握る、すでに思秋期を迎えた女の目には、畑は畑にしか映らないのがたまらなく寂しい。

 

 私がベルヴィデイアまで車を走らせたのは、ベルヴィデイアにある天才建築家フランク・ロイド・ライト設計の小さなチャペルが見たかったからである。世界中で400以上もの建物を設計したライトと聞けば、日本人なら旧帝国ホテルを思い出すところだろう。帝国ホテル以外にも、東京目白の自由学園とか、私の故郷神戸近く、芦屋の旧山むろ邸や西宮の甲子園ホテルが彼の設計だそうな。私自身は近くに30年も住んでいながら、一度も見たことはない。

 

早くから浮世絵に興味をもち、フェノロサと接点があり、シカゴ万博で「鳳凰殿」と出会い、何度か訪日しているというから、さぞかし「日本びいき」かと思いきや、ライトは生涯一貫して「日本からの影響」を否定してきたというから(山口由美著「帝国ホテル・ライト館の謎」46ページ)、巨匠の偏屈ぶりを垣間見た思いで、少し挑戦するような気分で、ベルヴィデイアまで出かけたのだった。

 

 

 

 チャペルは小さな町の町はずれにあるベルヴィデイア墓地(1121 North Main St)にあった。ぺティト(Pettit)・メモリアル・チャペルと呼ばれるが、ぺティトを浅学にもフランス語読みしたつもりで、さぞかし小さいのだろうと想像していた私は、t一つの違いでぺティトとは建てた人の名前と聞いてびっくりした。48歳の若さで亡くなったベルヴィデイア出身の医師、ウイリアム・ぺテイト博士を偲んで、妻エンマがライトに設計を依頼、1907年に完成したものである。

 

 

 

 

ライトの第一黄金期の特徴であるプレーリースクールスタイルの建物だった。建て物の両脇にある小さな階段をあがって中に入ると、こじんまりとしていながらやはりライト特有の世界が広がっていた。天井と壁に長く水平の濃い褐色のトリムを用いた構造で、窓ガラスには幾何学模様のデザインがほどこされていた。

 

 前出の本によると、「ライトは恋多き男」で、「最初の妻以外の3人の女性との恋愛のうち二人とは、いわゆるダブル不倫の状態で恋が始まっている」というライトの人間性に、名声と才能に不可能はないのかと疑問に感じながらも、やはりライトの世界に一種のくつろぎを覚えてしまう。

 なぜかな、とふと考えこんで、石川九楊著「二重言語国家・日本」という本の中の一節を思い出した。日本人が持つ「生け花、盆栽、松梅など庭木などの、剪定によってつくりだされる幾重にも屈曲した枝ぶりの美学」(76ページ)、つまり書くことを中心とする言語、日本語によって、日本人の意識には「線の美学」が無意識のうちに植え付けられているという。建築のことなど何もわからぬ私がライトのデザインに惹かれるのは、太く細く整然と空間を切り取る「線」の世界が好きなんだと一人納得した。

 

 現在、チャペルは、州と連邦の歴史的建築物に指定され、申し込めば結婚式も行うことができる。