「イリノイ探訪」

ビショップヒル

 

 

ビショップヒルへの道は起伏に富んでいた。道の両側には実り豊かな丘陵地が高くなったり低くなったりして、空と優しく接している。ヤンソンたちが耕した12000エーカーといえば相当な広さである。80号線のアテインソンから南へ田舎道を走りながら、このあたりを遠いスエーデンから身一つでやってきた人々が一生懸命働いて耕していたのだろうなあ、と黄金色に輝く畑を見ながら考えていた。

 

 ビショップヒルは、宗教的自由を求めたスエーデン移民によって1846年に作られたコロニーである。「プレーリーにユートピアを」のスローガンを掲げて、寝食をともにし、労働もその結果もすべて住民で共有するという共同生活の場、コミューンだった。が、わずか15年後の1861年にはすでに消滅していた。それでも、短命だったビショップヒルをめざして、1000人以上ものスエーデン人が大西洋を渡ったといわれている。1996年9月には、スエーデン王グスタフ14世とシルビア王妃も訪問されたとのことで、スエーデン系移民にとっては、かなり重要な意味をもつ場所らしい。現在の人口は約150人、そのうちの25パーセントが一番最初の移民の子孫だとか。家族数60である。

 

西部のスエーデンコミュニテイの衰退は、移民たちのアングロサクソン文化への同化が早かったからとのことだが、現代のビショップヒルからもそれは十分に感じられた。要するに、チャイナタウンのようなごてごてした一種独特の猥雑さがあるわけでなし、すっきりとして、とりたてて何もないのである。独特のタッチでコミューンの日常生活を描いた画家オロフ・クランスの作品が並んでいる美術館や、当時のコミューンの生活を再現した歴史館、住民が一家族一部屋をあてがわれて生活をともにした教会やアパート、旅行者用のホテルが現在、歴史的建築物に指定され、保存・公開されている。

 

 

 

 

教会は十字架や空にのびる尖塔をもたず、ユニークな形をしている。かつての鍛冶屋や家具屋に靴屋、病院、学校、郵便局など当時の建物が20あまり保存され、現在は商店やベッド・゙アンド・ブレックファストに使われている。観光シーズンになると、スエーデンの歌や踊り、食べ物を提供して、スエーデンの祭りを楽しませてくれるという、せいぜい2ブロック四方のこじんまりとしたかわいい一種のテーマパークである。訪ねた日には、芝生の上で、青と黄色のスエーデンの国旗の色の風船で飾り付けた誕生パーテイが行われていた。

 

 コロニーを作ったのは、1808年12月19日、スエーデン・ビスコップスクラの農家に生まれたエリック・ヤンソンである。コロニーにあったヤンソンの家は白塗りの大きな3階立ての家で、現在も住居として使われている。小さい時から、何かと不運の続いた人間だった。1歳か2歳のとき、7歳だった兄と遊んでいて、左手の指を2本切り落としてしまったり、8歳の時馬車を御していて、車から落ち、無意識に陥るほどの大怪我を負ったり、また他の子供たちといっしょに遊べないほどひどいリューマチに苦しんでいた。22歳の時、仕事中にリューマチの激しい痛みに襲われたヤンソンは、神の啓示を受けたと信じ、宗教を勉強するようになる。そして、聖書だけにもとづく簡素な生活と原初キリスト教への帰依を主張して、スエーデンの国家宗教ルター派と対立した。

 

国家宗教を邪道と糾弾したのである。ヤンソン派と呼ばれた人々は、家で祈りを行い、子供たちを学校にやらず、聖書以外の祈祷書は燃やしたために異端とされ、罰金や暴力やと迫害がひどくなった。そこで、アメリカに新天地を求めたのだった。なぜイリノイだったかというと、1843年にシカゴを訪れたスエーデン人のビジネスマンが故郷に書き送った手紙をもとに書かれた本を読んで、イリノイがいいと思ったそうな(「ウイ−ト・フラワー・メシア」111ページ)。きっかけなんて案外そんなものである。

 

 

 1845年秋、119人のヤンソン派を載せた帆船、ウイルベルミーナ号が、ノルウェ−のオスロ経由で、ニューヨークめざして出航した。途中、高齢の女性一人と22人の子供がなくなり、3人が生まれたとか(前著103ページ) アメリカに到着しても英語ができないために当然苦労があった。何らかの理由でヤンソンに幻滅したり、単にアメリカへのただ切符が欲しかっただけの人間は、シカゴやニューヨークでヤンソン派から離れていった。エリック・ヤンソンの兄自身が一行から離れ、シカゴにとどまった。デイアボーンとステート通りにはさまれた、イリノイ通りにある家に住んだとか(前著122ページ)

 

 ヤンソンたちは、ニューヨークからシカゴ、さらに西部ビクトリアまで、川や運河、湖を利用して船でやってきた。1846年7月のことである。翌8月に、250ドルで40エーカーの土地を買い、自分の生まれ故郷にちなんでビショップヒルと名づけた。翌9月になると、信者たちがシカゴから160マイルを歩いて、ビショップヒルにやってきた。地面を掘り、小さな小屋を次々に建て、一つの小屋に25人から30人が生活した。が、最初の厳しい冬を越せず、96人もの人が亡くなった。それでもスエーデンからユートピアをめざす人々は次々とやってきて、コロニーは大きくなっていった。

 

 ヤンソンはコロニーのあらゆる活動を監督した。1回の祈祷は3−4時間。一日2回、日曜日は3回。服装は全員同じで、すべてコロニーで織られた。亜麻を自分たちで育て、一年で12000ヤードものリネンを生産したとか。服は毎年2セット、ブーツ1足、靴1足が各人に与えられた。食事は1日4回で、毎週牛と何匹かの豚が殺され、8人のコックが料理した。とうもろこしのどろどろした濃いかゆやかぼちゃと小麦粉のパンを食べ、ミルクとコーヒー、ビールを少し飲んだ。ビールの醸造所の写真が今も残っている。イリノイの土地はスエーデンと違って肥沃なため、懸命に働いた人々はやがて12000エーカーもの農地をもつようになった。そこで、500頭の牛、馬100頭、豚1000頭、鶏が飼われた。

 

 コロニー生活のよさは安全、安心、快適さだった。人々は働きすぎることなく、自分のできる範囲で仕事した。自給自足の生活の上に、自分たちが作ったリネンや家具、ワゴン、箒、農産品を販売、1848年から1861年までのビショップヒルは、ロックアイランドとピオリアの間の主要な商業センターとなっていた。とりわけブルームコーンの市場がぺオリアやシカゴで拡大すると、コロニーの年間の収入も大幅に増加、経済的な成功をもたらした。現存しないが、「ビッグブリック」と呼ばれた、部屋が96と二つの大きな食堂があった2棟のアパートは、シカゴの西で最大の煉瓦造りの建物だったという。人々が自分たちの名前を入れて焼いた煉瓦が教会に展示されていた。

 

 コロニーとしては経済的に恵まれていたのに、むずかしかったのは信仰との共生だろう。ヤンソンは人々に、スエーデンでの生活の8分の1の生活費で生活するよう強制したらしい。1849年春コレラがはやっても医者は呼ばれず、信仰がたりないからだとヤンソンは患者を責めた。結局コレラで200人が死に、ヤンソン自身も妻をコレラで失った。それでもコロニーには、男100人、女250人、子供200人、計550人が残っていた。

 

 ところが、ヤンソン自身が翌1850年に殺されてしまった。きっかけは、ヤンソンと渡米した従姉妹のシャーロッタが結婚したスエーデン人のジョン・ルーツが、妻をコロニーから出そうとして、ヤンソンともめ、裁判沙汰になったからである。1850年5月13日月曜の朝、15マイル離れたケンブリッジの郡裁判所で、ヤンソンを被告、ルーツを原告とする裁判が開かれていた。その裁判の昼休みに、人々が出ていって静かになった2階の部屋で、ヤンソンが窓から外で遊ぶ子供たちの様子を見ていた時だった。突然ルーツが「エリック・ヤンソン」と叫びながら現れ、二人はスエーデン語で何か言い合うー多分、妻を返せ、お前にはメス豚で十分だ、みたいなことーと、ルーツはピストルを取り出し、立て続けに2発撃った。一発はヤンソンの肩に、もう一発が心臓に命中して、5分後にはヤンソンは床にころがっていた。信者たちは、「第2のキリスト」という予言通り彼が生きかえることを期待したものの、3日間待っても生き返らなかったので、ビショップヒルの墓地に埋めたのだった。

 

 ヤンソンの死後、7人の理事がコロニーの経営に乗り出したが、背任行為が発覚、1861年にコロニーは解散した。 

 

私は、村はずれにある小さな墓地で、片面は英語、裏にはスエーデン語で刻まれたヤンソンの墓の前に立っていた。そして、その時夢中になって読んでいた宮部みゆきの推理小説「理由」の世界に、ヤンソンの人生を合わせていた。「理由」は、家族の絆に恵まれず、居場所がなく孤立してしまった人々が作った擬似家族の悲劇がモチーフである。それは、コミューンという擬似家族を作ったヤンソンにも通じるものがあるような気がしたのだ。

 

   

 

 ユーモアのセンスがなかったといわれるヤンソン。両親は子供の世話をしないとヤンソンは思い、非常に嫌っていたとか。リューマチになったのも、父親に仕事をやらされすぎたから、と思っていたらしい(前著2ページ) ヤンソン家に6年働いていた当時20歳の使用人、マリア・クリシィーナと27歳だったエリックが1835年に結婚したのは「できちゃった婚」だった。が、聖書の教えに反すると、結婚式の時、妻は義父のテーブルに夫といっしょに座ることが許されなかった。その時の怒りが既存権威に反抗する態度をつちかったらしい(前著6ページ)。シンプルなアイデアと強い信念、ずぶとさ、大胆さが民衆を惹きつけたリーダーと研究者は言うけれど(前著176ページ)、つねに何やら暗い、寂しい感じがつきまとう。妻をコレラで失ったあと3週間後に、ニューヨ−クに着いて以来親しかったソフィアと再婚したものの、結婚式は葬式みたいだったとヤンソン自身が言っている(前著143ページ)。

 

「できちゃった婚」で生まれた子供は生後6ケ月で亡くし、1838年生まれの息子エリック・ジョンソンと、一番父親に似ていると言われた1842年生まれのマチルダの二人が生き残った。娘は1856年までビショップヒルの学校で教えていたが、北軍のキャプテンと結婚、アイオワに移り、1926年にそこで死んだ。

 

 ヤンソン殺害をひきおこしたシャーロッタは、ビショップヒルに残ったのは自分の決断だったと言い、郡の弁護士になった息子の成長を楽しみにして、1905年に80歳でビショップヒル近くのガルバで死んだ。ヤンソンの第2の妻ソフィアはそのガルバで下宿屋を開いたものの成功せず、1888年、近くの貧民靴で死んで、ヤンソンと同じ墓地に埋められている。

 

 そして何よりも、いっときはヤンソンのコミューンの考え方に集った人々がみんなばらばらになり、ヤンソンとのつながりを絶ってしまった。ビショップヒルの住民の多くが1864年にできたメソジスト教会に移った。他にもセカンド・アドベンチスト教会やスエーデンミッション教会、州外に出てシェーカー教徒になるなど、ヤンソン派とは、エリック・ヤンソン一人だけの「ユートピアの夢」に終わってしまった。ヤンソンの墓の横に、80歳で1919年に死ぬまでビショップヒルに残り、新聞や雑誌を発行した息子エリック・ジョンソンの小さな墓が並んでいる。

 

まるで、父親のはかなき夢を密かに受け継いでやりたかったと思いやる子の心のように。ヤンソンの「理由」はなんだったのだろうか。人間ほど不条理なものはない、とあらためて思う。