「イリノイ探訪」

ゲールスバーグ

 

 

 昔、文学を専攻し、詩集も出したことのある同居人に聞いてみた、「カール・サンドバーグって、どんな人。どんな詩を書く人。」 同居人は、さあ、と首を傾げて、「読んだことないから、よく分からない」

 

 読んでことないって、何やら2回もピュ−リッツア賞をもらって(1回目は1940年にリンカーンの本で、2回目は1951年に詩集で)、テレビにもいろいろ出て、大統領たちとも仲がよく、歌も歌う人で、アメリカで一番人気のある詩人、作家の一人だったというじゃないの。文学専攻だといっても、かなり偏ってるんだね、と思った途端、同居人がぼそぼそと付け足した、「確か、労働者階級を対象にした詩を書く人だったと思うけどね。」

 

 労働者階級ーこれだ、と思った、大学で勉強しなかったわけは。エリートじゃなかったんだ。

 「Hog Butcher for the World, Tool Maker, Stacker of Wheat, Player with Railroads and the Nation's Freight Handler; Stormy, husky, brawling, City of the Big Shoulders:

戦後、シカゴのレークショア・ドライブに出来た最初の高層ビルは、サンドバーグ・タワーと呼ばれたとか。シカゴとゆかりが深く、シカゴが育てた詩人サンドバーグの、「シカゴ」と題された詩の最初の一節である。City of the Big Shouldersー半裸になった男たちが、苛酷な労働条件下で汗を流しながら、懸命に働く大都会シカゴの片隅。詩は、自分たちの肉体労働に誇りをもち、身を粉にして働くたくましい男たちへの賛歌である。

 

 

 サンドバーグの生家を訪ねてゲールスバーグに入った途端、サンドバーグを創ったのはたぶんこれだろう、と直感したものがある。町を縦横に走る鉄道線路と、その上を絶え間なく行き交う黒々とした列車の走る音である。ゲールスバーグは、時には騒々しくも、またどことなく寂れた感もする労働者の町である。サンドバーグは毎日、あちこちの方角からやってくる穀物列車や石炭列車がごとごとごとごと通過していく低い音と、ちゃらんちゃらんちゃらんと気ぜわしく鳴る踏み切りの音を聞きながら育ったに違いない。

 

 現在の人口33000人。1837年に町が出来たきっかけにも労働者への視点があった。ゲールという名の牧師とそのグループがニューヨークからやって来て土地を買った。貧困層の子供たちにも高等教育の機会を与えたいと、大学を作るのが目的だった。今日のノックスカレッジである。町に鉄道がやってきたのは1854年12月。長年バーリントン・ノーザン鉄道とサンタフェ鉄道の2つが走っていたが、1995年に両鉄道は合併した。が、今もアムトラックの駅は2つある。

 

 サンドバーグは、この鉄道線路のすぐ近く、つきあたりが線路で行き止まりになった狭い通りに面した小さな家で、1878年1月6日に生まれた。7人兄弟の2人目だった。私が最初に家を見た時の印象は「わあ、小さな家」だ。入り口のドアから裏庭への出口のドアまで、わずか10歩ほど。中に入ると、部屋というよりは正方形を4つに区切った感じで、ダイニングにキチン、ベッドルーム的なスペースが2つ作られていた。19世紀の典型的労働者階級の家だという。プライバシーなんてあったもんじゃない。区切りに壁もドアもないのだから。

 

 父アウグストは、一度も読み書きを習ったことがない、スエーデンからの移民だった。鉄道の仕事がたくさんあると、先にイリノイに来ていた従兄弟からの手紙を頼りに、1870年にスエーデンから渡ってきて、シカゴやゲールスバーグで鉄道関係の仕事についた。1時間14セントで一日10時間、週に6日働いた。退職するまで昇給もなく、このスケジュールで働いたという。

 

 母クララもまた、従姉妹に励まされて、1873年にスエーデンからやってきた。2人の出身村は、ストックフォルムの南、わずか11マイルしか離れていない近所同士だった。そのよしみもあっただろう。クララがホテルのメイドをしていた、ブッシュネルというゲールスバーグ近くの小さな町で二人は出会うと、翌1874年には結婚している。

 

ほぼ2、3年の間隔で7人の子供を作り、そのうち2人を病気で亡くし、そのたびに家を変わり、今ゲールスバーグには一家のゆかりの家が4軒残っている。最初の、サンドバーグの生家だけが、州の歴史的建物に指定されている。

 

 

 

 

 生家の隣にあるヴィジターセンターで資料を読みながら、面白いなあと思ったのは、父親が苗字をダニエルソンからサンドバーグに変えたことだ。ダニエルソンはきっと、日本の田中と同様、スエーデンではありふれた名前なのだろう。一度自分のペイチェックが他の人間に渡ってしまったのがきっかけらしい。文字が読めなかった父親にしてみれば、悔しいどころじゃなかったに違いない。名前変更は息子カールも同じだ。北欧系であることを隠すために、長いあいだチャールズと名乗っていたらしい。英語名をもつ現代日本人もいることだし、アメリカへの同化をめぐる移民の悲哀とエネルギーは今も昔も変わらない。

 

 詩はさっぱり分からず、文学もほとんど読まない私がただ一つサンドバーグに惹かれたのは、有名になる前に社会主義者の顔を持っていたからである。

 

 アメリカ社会に苛立ちを覚え、目をヨーロッパに転じると、アメリカの宗教色の濃い"田舎"度にうんざりすることも多い。欧米とひとくくりにしてみても、アメリカとヨーロッパの間には厳然とした違いがある。時に、ヨーロッパの方がアメリカよりはるかにリベラルで自由、進歩的なのは、長年の社会主義の影響が根強くあるからだろう。それはアメリカの国境を超えて、カナダに入った途端私が感じたことでもあった。人間が、社会がゆったりしていると直感したのである。たとえアメリカと地続きでも、イギリス連邦に属するカナダはヨーロッパの伝統をしっかりと受け継いでいると私は確信し、それがうらやましくもあった。

 

 サンドバーグはなぜ社会主義運動に関わったのか。社会主義に関わっていた人間がどうして後にアメリカの偶像的存在になることができたのか。何か目くらましのトリックがあるように私には思えた。

 ふと本屋で目についた本、「オン・ザ・レフト・イン・アメリカースカンジナビア系アメリカ人の労働運動の回想」(ヘンリ−・ベングストン著 南イリノイ大学出版)を読んでみて、多くを学んだ。まず、1870年から1920年頃までは、アメリカでも労働争議が続いた時期だったこと、そのころスエーデンでは社会民主労働運動が盛んだったこと、スエーデン移民によってアメリカでもこの運動が盛んになったこと、スカンジナビア系の運動として、フィンランドやノルウエー系の活動家ともつながっていたこと、1876年にフィラデルフィアで主にドイツ系によって労働者党(Workingmen's Party)が、翌1877年にニュージャージーで社会主義労働党(Socialist Labor Party、SLP)が作られたこと、SLPの特徴は全米で26もの新聞を出し、シカゴでもスカンジナビア系のメンバーがDen Nye Tid (ニューエイジ)という週刊新聞を出していたこと、SLPから分かれた社会主義党(Socialist Party、SP)に属するスエーデン・クラブがロックフォードにもあり、Svenska Socialisten(スエーデン社会主義)という新聞を出していたこと、シカゴでの社会主義運動の本拠地は、1904年に、ホルステッド通りとミルウオーキー・アヴェニューの角にできたレークビュー・スカンジナビアン・ソーシャリスト・クラブだったこと、クラブに最初に入ったのはノルウエー人で、1907年にデンマーク人が、少し遅れてスエーデン人が入ったこと、などなど。

 

 大都市シカゴは社会主義や組合運動がかなり盛んで、さまざまな会合や大会がいつも開かれていた。とりわけ、スカンジナビア系人による活動は活発だったようで、スエーデン移民の息子だったカール・サンドバーグは当然これらの運動や活動を知っていただろう。が直接的に、スカンジナビア系の運動とは関わっていなかったようだ。何せ名前を変えて、スエーデン系であることを隠すほどだったのだから。

 

 サンドバーグが社会主義運動にめざめたのは、彼の育った家庭環境を考えると、当然といえば当然だろう。学校に上がる前のこと、近所の雑貨屋へ使い走りをした"チャールズ"は、母親に頼まれた物を、言われたとおり"put on the book" にしてもらった。"つけ"の意味を知らなかった子供は、自分が欲しかった5セントの菓子もいっしょに"put on the book"にしてもらった。家に帰って初めて"つけ"の意味を教えられた"チャールズ"は、その言葉の重さに胸がおしつぶされそうになった、と後に書いている。貧しさが身体に刻み込まれるとはこういうことだろう。

 

 当然のごとく"チャールズ"は、11歳の時から家計を助けるために働きはじめた。毎日学校の始まる30分前に不動産屋の事務所で掃除、一週間に25セントを稼いだ。放課後は、週に6日、1時間半かけて新聞を配達、1週間に1ドルを家に持って帰った。1892年、8年生を終えた時点で学校を辞め、ミルク配達から消防夫の手伝い、レンガ積みにアイスクリーム屋にドラッグストア、ホテルで靴磨きなど、自分にできる仕事は何にでもついた。その間に、父親が働く鉄道会社でのストライキも見聞きし、労働者たちの闘いとジレンマを知った。1896年、18歳ではじめてシカゴを見物、自分の知らなかった別世界に惹かれるように、翌1897年から3ケ月かけて鉄道で、アイオワ、カンサス、ネブラスカ、コロラドと放浪の旅に出ている。この旅のあいだに、のちに講演会で披露することになるさまざまな土地のフォークソングを覚えた。同時に、持つものと持たざるものの格差を実感、資本主義に強い嫌悪感を覚えるようになったという。

 

 1898年には米西戦争に参加、キューバとプエルトリコに赴き、半年後にゲールスバーグに戻ってきた。GI法で、町のロンバードカレッジに入学したものの、高校へ行っていないため臨時学生の身分でしかなかった。再び仕事をはじめ、3年後には中退。しかし、この大学時代にリベラルなフィリップ・ライト教授と出会ったことが、サンドバーグの人生の大きな転換点となったようだ。文学に目覚め、かつ政治的意識を強めるきっかけとなったらしい。教授は1904年に自分の家の地下室で、サンドバーグの最初の詩集「レックレス・エクスタシー」を印刷した人物である。

 

 サンドバーグは、大学中退後4年間、ステレオスコープ(立体写真鏡ーと辞書にあったっが、私にはどんなものか想像もつかない)を売るセールスマンをしながら、詩を書きつづけた。普通の人に分かる言葉で普通の人のことを書き、称えたのだった。

 

 ウイスコンシンはドイツ系が多く、社会主義党(SP)が強い基盤をもっていた。ミルウオ−キーの市政にも影響力があった。サンドバーグがそのSPのミルウオ−キー支部の人間と知合い、ウイスコンシン州の地方をカバーする党のオーガナイザーの仕事に応募、働きはじめたのは1907年のことである。このあたり、サンドバーグが社会主義運動を心底信奉し、活動家をめざしていたというよりは、とにかく何か仕事をしなければならない、自分の好きな書くことで仕事がしたい、といった思いの方が強かったような印象が本から漂ってきた。

 

 ミルウオ−キーの社会主義は、運動内部では、保守的、ブルジョア的改革主義といった"右派"と見られていた。が、1910年秋には、連邦議会に全米最初のSPの議員を送るほどの力があった。1912年には、イリノイ州ロックフォードの市議会で雑誌Svenska Socialistenの編集長が議員になったり、ミネソタ州の2つの街でも、スエーデン系社会主義者が市政に参加するなど、社会主義がこのアメリカでもかなり受け入れられていたと初めて知って、驚いた。

 

 サンドバーグがミルウオ−キーの社会主義党の活動に関わるようになってすぐ、活動家リリアン・スタイファンと出会っている。手紙で熱情的に社会主義的理想を語りあい、翌1908年に結婚。1909年には、党のエミル・サイダルのミルウオ−キー市長選挙運動を応援することになり、名前を本来のカールに戻したのもこのころである。ミルウオ−キーのドイツ系コミュニテイの中で、自分も仲間として見られたかったから、が理由らしい。選挙に勝つためには、自分の本当のアイデンテイテイ、つまりスエーデン系なんてことはふっとんでしまうんだ、と妙に感心してしまった。

 

 サイダルが無事に市長に当選すると、サンドバーグは私設秘書となった。忙しくて、1910年3月の父親の葬式にも出られないほどだったという。が、運動の常道として政治路線をめぐって内部分裂が起きる。党の中心的人物がリリアンに横恋慕したり、サンドバーグが党の新聞を組合化しようとしても、ライターはプロフェッショナルと見られて、労働組合として認められなかったりと、党と軋轢が生じた。失望したサンドバーグは1912年、1歳の娘マーガレットと妻リリアンとともにミルウオ−キーを去り、シカゴに戻ってきた。

 

 1912年は、アメリカの左翼運動の転換点だったという。最初は中道派の社会主義運動だったが、1912年あたりに左傾化し、1917年にアメリカが世界大戦に参加すると、左翼の間で分裂した。社会主義党の内紛が広く知られるようになると同時に、組合運動のIndustrial Workers of the World (IWW)が力を得はじめていく。社会主義運動と組合運動の違いなど、何度聞いても、私がどんなに頭をひねっても理解できるとは思えないが、連合赤軍の浅間山荘事件でも思い出せば、覇権をめぐって運動内部でさまざまな論争、軋轢、分裂があっただろうことは想像に難くない。

 

 シカゴに戻ったサンドバーグは社会主義系新聞の記者となり、安定した仕事を求めて、いくつかの新聞社や雑誌社を転々としている。そしてシカゴの街と人々、政治、富裕層と労働者階級の差をまのあたりにした。とりわけ、見て育った父親の背中がなじみ深かっただろう、鉄道労働者に対する搾取を調査報道する記事を書いたり、組合化を論じたりした。

 

 雑誌「インターナショナル・ソシアリスト・レビュー」は1900年にシカゴで創刊され、当初はマルクス主義を広める使命を帯びていた。が、1908年に組合運動支持に方向転換、IWW寄りし左翼化していった。そこに掲載されたサンドバーグの記事の一節を読んで、またまたびっくりしてしまった。確かに、専門用語は使わず、簡単な英語で、普通の人にも分かる、とりわけ私のような外国人にすら分かる簡単な文章ではあるけれど、「That piece of paper called the Constituion of the United States is some joke. It was made for men and against dollars. It is used for dollars and against men Constitutional right - huhフィリップ・ヤネラ著「ジ・アザ・カール・サンドバーグ」ミシシッピ大学出版局、39ページとなると、その洗練さのない直接的な表現に、こんなショック療法でよかったの、と思わず首を傾げてしまう。

 

まあ、当時のメデイアがそんな扇情的な文章を必要としていたのだろうか。かと思えば、1914年にシカゴで2人のアナーキスト女性が創刊した「リトル・レビュー」にも書いていたそうで、社会主義、組合主義、無政府主義(アナーキズム)と、生活のためには、主義を選ばずに書く媒体を探していたことになる。売れないしがないライターのはしくれとしてはサンドバーグの気持ちが分からないわけでもないが、何かが臭ってきてならなかった。しかも、扇情的な記事はすべて筆名を使って書いていたというではないか。

 

 扇情的ジャーナリズムで生活費を稼ぎながら、本名で書き続けたのは詩である。1915年、妻リリアンの勧めで書き集めた詩を出版社に送ったところ、ついに出版が決まった。すると今度は自分の政治的傾向を抑圧するようになっていったというから、しょせん大人になる、名が出る、とはそういうものなんだろう、とうんざりする思いである。

 

 それでも筆名で書く新聞記事では、「覚醒した労働者は革命的な組合を望んでいる」と激しく訴え、アメリカの第一次大戦参戦はロックフェラーやマーシャル・フィールドなどの大資本家だけを利していると攻撃、「もし労働者階級が戦時生産体制を拒否したらどうなるか」と反戦を唱えることで、サンドバーグは「過激派ライター」のレッテルに忠実に従っていた。ところが、いったんアメリカの参戦が宣言されると今度は、「愛国者」のレッテルを振り回してアメリカ支持に回り、ドイツは地球上から抹殺するべき国だと言い、平和主義者や反戦過激派を攻撃、これまで筆名で書いてきたことを幸運に思ったというから(ヤネ−ラ 81ページ)、私の方は「なんやこいつ、かなり薄汚い日和見主義者じゃないか」と、「うんざり」から腹立たしさすら感じるようになっていた。だから、シカゴの社会主義系新聞社が閉鎖され、サンドバーグが失業したと読んだときは、ざまあみろ、とまで思ったものだ。

 

とにかく、アメリカが戦時体制にあった1917年から1918年にかけてのサンドバーグがアイデンテイテイの揺れを経験していたのは周知の事実のようで、詩の世界でも、労働者よりは、中西部のハートランドをこよなく愛する普通の"100パーセントのアメリカ人"を謳いあげる詩人に変化しはじめていた。

 

 だから、レポーターとして1918年10月にスエーデンのストックホルムに赴き、ロシアのボルシェビキ革命を報告する仕事をしたのも、しょせん単に仕事だった、ぐらいの意味しかなかったろう。それゆえ、シカゴでの教職を捨ててボルシェビキ革命の闘士となったミッチェル・バーグ、のちのミカエル・ボロ−デインから、ニューヨークにある党のオフィスへボルシェビキ資金の1万ドルをもって帰ってくれ、と頼まれたときも、平然とストックホルムにあるアメリカ公使館にその旨報告しているのである。さすがに誰から預かったかは言わなかったそうだが、陸軍の諜報機関にマークされながらも、「無害の社会主義者」との政府側の評価(118ページ)を、計算ずくで自分からあえて上塗りしていた、と考えるのはあまりにもうがった見方だろうか。公正さを重んじるジャーナリストという立場をおおいに利用して、愛国主義者としての左翼をどうにか演じながら、単細胞的な革命運動家はあえて排除して、自分の安全領域を必死で守った男ではなかったか。

 

 2ヶ月もたたずしてヨーロッパからシカゴに戻ったサンドバーグは、1919年7月のシカゴの人種暴動を取材、黒人問題にも取り組んでいる。事件は、ミシガン湖の白人専用ビーチで泳いでいた黒人の子供が殺され、現場に呼ばれた警官が犯人を逮捕することを拒否したことに端を発した。サンドバーグは記事の中で、暴動に加わったシカゴの貧困層の白人の状況やリンカーンと南北戦争に触れ、奴隷解放宣言を知らない警官によって政府が機能しなくなっていると書いたものの、黒人の進歩と白人の受容を強調、将来は人種混合も人種暴動も起こらないと予言した。その楽観主義は「過激派ライター」といったレッテルから逃れる第一歩だったかもしれない。

 

 1920年代に入って、過激派はなりをひそめはじめる。社会主義党(The Socialist Party of America) やIWWはばらばらになり、無政府主義者たちは地下にもぐるか消滅した。サンドバーグは、たとえ本名でも社会的意識の強い詩を書くことはもう意味がないことをはっきりと悟っていた。3冊目の詩集は500部が売れて、入った印税は100ドル以下という現実を前に、とりわけ3人の娘のうち2人が癲癇や学習障害をもっていることが分かると、家庭の安定をはかるために父親として夫としての責任感からキャリアは変更せざるを得なくなった。1922年あたりからサンドバーグは新聞に映画評を書き始める。そして地方での講演会やリサイタルでのパフォーマーとしての活動を通して、非常に短期間のうちに成功の道を歩みはじめる。駄目押しはたぶん「売れる」本を書いたーつまり「リンカーン」を書いたから、だろう。

 

 詩人として、作家として、パーソナリテイとして地位を確立したあと、サンドバーグが1967年に死ぬまで住んだノースカロライナ州の家は、丘陵が広がる245エーカーもの敷地に建てられた22室の大豪邸だというから、これまた驚いた。豪邸の窓から見える広大な丘陵風景に、鉄道の町ゲールスバーグのごみごみした殺風景な風景や小さな正方形の家が浮かぶことはあったのだろうか。

 

 その答えを見つけたように思ったのは、生家の裏庭に「リメンブランス・ロック」が造られたのが生前の1966年だったという事実を知ったときである。サンドバーグの灰と、サンドバーグの死後10年がたって、妻リリアンの灰もこのロックの下に埋められている。

 

 サンドバーグは1948年に、「リメンブランス・ロック」という詩を書いた。

 「Here stood four pointed cedars he had planted for the four cardinal points from which any and all winds of destiny and history blow. .. for it could be a place to come and remember.

 詩の言葉通りに造られたロックの回りには、サンドバーグの詩が彫られた踏み石が置かれている。

 「O, prairie mother, I am one of your boys, 」「After the sunset on the prarie there are only the stars, the stars standing alone」「 I rest easy on the prarie arms on the prairee heart

 

 プレーリーの賛美は、パイオニア精神というアメリカ人の原風景を想起させ、サンドバーグの「百パーセントのアメリカ人」的愛国者魂を証明するものだろう。が、そこからは、サンドバーグの「もう一つの顔」は完全に抹殺されている。たぶんサンドバーグ自身がほとんど振りかえることはなかっただろうと言われている「顔」である。そして、1920年代のアメリカのラデイカリズムがその後どのような方向に向かおうと、家族に対する責任感から、サンドバーグのその後の人生が異なった道を辿った可能性はほぼ皆無だとも。研究者によると、サンドバーグは、革命ではなく社会変容をめざして、自分で行けるところまで行った人で、これまた「アメリカンドリームの典型」だとも。そうだろうか。

 

 日本では「美空ひばり」を音楽大学で研究するのかどうか私は知らないが、同居人の知る大学人が「サンドバーグ」をとりあげなかったわけは、案外、満足に教育を受けていないサンドバーグが成功の極みに到達したという、レッドネック的発想の「アメリカンドリーム」に対する一種の嫌悪感といったところにありはしなかっただろうか。

 

 ヴィジターセンターで見たビデオの中で、一番嫌いな英語の単語は何かと聞かれたサンドバーグは、「exclusive」と答えていた。「生活がかかっている」という男の責任感に突き動かされて、「武士は食わねど高楊枝」式の頑固なまでの確固としたアイデンテイテイの追求よりも、貧困から富裕まで、さまざまな時代と人々のあいだを泳ぎ抜いたサンドバーグがたどりついた、自己のアイデンテイテイの究極の表現かもしれないな、と私は思った。

 

 6月15日深夜、朝早くからシカゴのユニオンパークに出かけていた同居人がにこにこしながら帰ってきた。農業から環境問題、人権から政治、社会正義まで、ありとあらゆる社会問題を訴える活動家たちが集まる「ローリング・サンダ−・ダウンホーム・デモクラシー・ツアー」に出かけていたのだ。持って帰ってきたチラシの中には、沖縄から米軍撤退を訴えるグループのもあった。パンフレットの最後に次のような言葉があった、「大企業が牛耳る産業社会から我々の真の民主主義を取り戻すために、ここでほんの少しの熱情と熱意、知識にあなたが出会えましたように。これまでもそうでした、熱意にあふれる個人がつくる小さなグループだけが社会を変えられるのです。」

 

 サンドバーグさん、私はあなたがなぜ245エーカーもの敷地に住む気になったかは問いません。でも、「もう一つの顔」を抹殺してまで有名に、金持ちになってもならなくても、家族を守りながらできたことってあったんじゃないか、と思うんですよ。ツアーでもらったチラシで、大企業を通さない、産地の小さな農家と直結したコーヒー「Equal Exchange」がデカブの町でも売られているのを知った。

 

不意に、数年前コスタリカのコーヒープランテーションで出会った少年の真っ黒な顔が目の前に浮かんだ。サンドバーグの詩や文章は読まない、でも「Equal Exchange」のコーヒーは飲もう、と心に決めた。