「イリノイ探訪」

オクアウカ

 

 サウスダコタで生まれて初めての田舎生活を送って、はじめて知ったことがある。田舎では娯楽がいかに貴重か、ということである。州にある唯一のエスカレーターは、小さな空港にあるわずか10段ほどのもの、という土地柄だった。3歳の息子が喜ぶからよくそのエスカレータに連れていく、と近所のキャシーが誇らしげに言ったとき、都会育ちの私は思わず顔をしかめていた。

 

 ある夏の日、そのキャシーに、町に来ていたカーニバルに誘われた。移動遊園地のことである。巨大観覧車や逆さまになるジェットコースターを知る都会人間は、カーニバルなんて、とまたもや顔をしかめた。がそれでも、まあ娘が喜ぶなら、と、思いきってキャシーたちと連れ立って出かけていった。小さな飛行機に乗るのに長い列を作っていると、突然気温が下がってどしゃぶりの激しい雨が降り出した。私は、娘が風邪をひくとおおごとだから早く帰ろう、とキャシーに声をかけたが、キャシーは聞く耳を持たなかった。それどころか、ずぶぬれになりながらも、買ったトークンをしっかりと握りしめて、「次はどれに乗ろうか」と、大雨であたりがかすむ中、必死で遊具のあいだを走りまわるのだった。その後ろ姿に、私は田舎生活のペーソスを見たと思った。一年に一度だけやって来るこのカーニバルが人々の大きな楽しみであり、雨ぐらいで簡単にあきらめられるものではないのだ、と。

 

 私が、ミシシッピの水がひたひたと足元にうち寄せる、川に面した村、オクアウカに立ち寄ったのも、そんな田舎暮らしのペーソスをのぞいてみたかったからだ。農地が両側に広々と続く平坦な道に少しずつ上ったり下がったりの傾斜がつきはじめ、道の両側に木立が並びはじめた。川が近くなった証拠である。人口1500人のオクアウカは、雷に打たれて死んだサーカスの象、ノーマ・ジーンの墓で知られている。普通の民家の庭先にも、銀色の象の像が立っていた。

 

 ノーマ・ジーンの墓はすぐに見つかった。村のウオータータワーの横、3レーンある25メートルプールの前にあった。ノーマ・ジーン、アフリカ象、30歳。1942年8月10日生まれ、1972年7月17日死亡。地元の人たちの寄付で作られた、高さ8フィート幅12フィートのモニュメントには、ノーマ・ジーン生前の新聞記事が飾られていた。そしててっぺんには、3フィートのコンクリート象が置かれていた。

 

 1972年7月17日、クラーク・アンド・ウオルターズ・サーカス団は、ここでサーカステントを張っていた。小さな町を回る小さなサーカス団のスターはもちろん6500ポンドのノーマ・ジーンである。朝7時半、ミシシッピを渡って激しい雷雨がやってきた。村の広場に立つ唯一の大木に、ノーマ・ジーンは鎖でつながれていた。大雨の中、トレーナーがなんとか鎖をはずそうとしている時に木に雷が落ち、ノ−マ・ジーンは感電、その場で即死した。7月19日付「ヘンダ−ソン・カウンテイ・ジャーナル」には、幹の途中でばっさりと2つに折れてしまった大木と、その根元に横倒しになってころがっているノーマ・ジーンの写真が掲載されている。ノーマ・ジーンは、倒れたその場所に埋められることになった。巨体を埋めるのに12フイートの穴が掘られ、死体をころがし落としたあと、6フィートもの土がかぶせられたという。サーカス団はスターを失い、代わりを見つける資金もなく、その後興行を断念した。

 

 たかが象の死と思われるかもしれない。が、オクアウカの人たちにとって、年に一度やってくるかどうかのサーカスがどんな意味をもっていたのか、村の子供たちにとっては大きな楽しみだったに違いない象が死んだことがどんな意味をもつことになるのか、ほんとの話はその後である。

 

 当初、ノーマ・ジーンが埋められた場所には何の印もなかった。ただ知る人だけが知る場所で、人々の記憶からも消えうせようとしていた。が、オクアウカで薬剤師をしていた当時63歳だったウェイド・メローンさんは、毎日その場所を通るたびに、うち捨てられた様子に心を痛め始めた。ある日、ノーマ・ジーンのために立派な墓を立てようと決心、埋葬場所に木の札を立て、芝生を植え、回りに垣根をめぐらせた。夏になると芝刈りをし、木を植え、メモリアルデーには花輪を添えた。やがて話が地元のメデイアを通じて広がり、墓石を建てる募金活動が始まる。全米から5セント、10セントとメローンさんの所に集まりはじめた。そして5年後の1977年5月29日、地元の人たちのボランテイア作業でモニュメントが完成した。

 

 それから10年が経った。この話を15分のドキュメンタリー映画にした青年がいた。南イリノイ大学の学生だったジョン・ベンクである。ベンクはこの映画「ノーマ・ジーン」で、ドキュメンタリー部門の学生アカデミー賞を受賞、ハリウッドにデビューした。映画はケーブルテレビで全米に放映された。この映画で自分の人生が変わったと、ベンクは新聞紙上で語っている。

 

 たかが象が死んだ話ではある。が、ノーマ・ジーンは人々に力の環を教えたと私は思う。宇宙が持つ力の環を感じた時こそ人生が変わる最大の契機だと私は考えるのだが、ノーマ・ジーンのおかげで人生が変わったのはベンクだけではなかったろう。何よりもこの私が、このオクアウカで、ノーマ・ジーンを通して力の環のエネルギーを受け取り、久しぶりに旅の醍醐味を味わうことができたのだった。

 

 それは、当時の新聞記事の情報を求めて、村の雑貨屋に入った時だった。雑貨屋のオーナーであるケント・ハミルトンさんは、私がノーマ・ジーンのことを調べていると聞くと、わざわざ大急ぎで家までベンクのビデオを取りに帰ってくれた。そして「あなたを信じてるから」と、なんのためらいもなくあっさりとビデオを貸してくれたのだった。その上、旅から帰ってきて3日ほど経つと、今度は93歳になったメローンさん自身から手紙が来て、ハミルトンさんから聞いたと、ノーマ・ジーンの古い資料を送ってきてくれたのだった。

 

人々の暖かさ、心の大きさがうれしくて早速、ビデオを見た。酒場で、ノーマ・ジーンが死んだ様子を楽しそうに話す人々。ハミルトンさんが、自分が製作販売している、ノーマ・ジーンの墓の絵葉書を手ににこにこ笑っている。もちろんメローンさんも登場した。白髪で、人がよさそうで、ひょうきんっぽい表情の人だった。道でりすやうさぎが車に轢かれて死んでいたら、家にもって帰って埋めてやるような人だった。象ともなれば、なにおかいわん、だろう。「気持ちをはっきりと表現することはできないけれど、たとえ死んだ象といえども、大切にしてあげたかった。きっとノーマ・ジーンは感謝してくれていると思う」と、ビデオの中でメローンさんは語っている。そしてフィルムは、明るい空に向かって鼻をのばしている象の黒いシルエット像とともに、メローンさんの言葉で終わる。「たとえ象であっても、人生で他者を助けることができないのなら、生きている意味はない」

 

 

 象の死が人々の気持ちをつなぎ、縁を結んだ。象の死後30年たって、私もまたその縁の中にいれてもらった。私が日本人だと知ると、ハミルトンさんは、なんと自分の息子トッドはプロのゴルファーで、丸山茂樹の友達だと言い出すではないか。トーケンコーポレーションカップの鹿児島、ダイドードリンコオープン、富士サンケイクラシックの静岡、兵庫はツルヤオープン、名古屋はクラウンスに始まって、奈良、香川、埼玉、宮城、岡山、栃木、広島、新潟、石川、北海道、福岡、千葉、茨城、愛知、山口、宮崎、東京と、トッド・ハミルトンが回った日本ツアーの数は数えきれない。ハミルトンさんはきっと息子の話を聞いて、日本人には特別な気持ちを抱いていたのだろう。

 

 世界は小さい、でもたまらなく深いー私は、オクアウカのさびれた簡素なボートハウスを横目で見ながら、ミシシッピの水に足を浸した。水も広大な宇宙の一部であり、その力は無限である。父なる川ミシシッピのもつ力が、足元から密やかに私の身体全体にしみとおっていくのを、私は全身の感覚をとぎすませて感じていた。小さな自分の中に大きな宇宙が宿るーオクアウカの象の墓に見たのは、想像していたような田舎暮らしのペーソスではなかった。自分は生かされていると感じることができる、自分を動かす宇宙の力の環に触れることができた、旅人の無上の幸福感だった。