「イリノイ探訪」

ピータースバーグ


 日本から来たばかりの人も言ったし、義理の父も言った、「リンカーンって、結婚生活は大変だったそうだね。」
 リンカーンの妻がかなりの曲者で、リンカーンにとってそれほど幸せな結婚生活でなかったことは、世間によく知られたことらしい。私は全然知らなかったので、そう聞いて、そうだったのか、やっぱり人間、すべてを手に入れることはできないんだ、と妙に納得した。

 おりしも、古い雑誌の整理をしていると偶然、「リンカーン、妻の暴力、大統領生んだ?家はイヤと政界にに転身」という見出しの記事(読売新聞94年9月10日付)が目にとびこんできた。当時の新刊書「エーブラハム・リンカーンの私的世界」(マイケル・バーリンガム著)の出版を報じた記事によると、メアリ夫人の癇癪は有名で、火をおこすのが遅いといって、薪で夫をなぐりつけ、熱いコーヒーを浴びせかけたり、ほうきの柄でたたくなどは日常茶飯事だったとか。妻の家庭内暴力への恐怖心から、リンカーンは”帰宅恐怖症”にかかり、仕事が終わっても家に帰らず、結果的にホワイトハウスまで上りつめるような仕事をしたが、もし結婚生活が平穏なものなら、生涯弁護士で満足していたかも、という。
 リンカーンといえば、「歴史に善意なし」という言葉が浮かぶ私は、「フーン、やっぱり善意なしねえ。別に奴隷解放したくて、大統領になったわけじゃないんだ。陰に女性問題があったんだ。」と、改めて中学時代の歴史の教師の言葉をかみしめた。
 リンカーンの実の母親、ナンシーは、1818年10月5日、リンカーンが9つの時に、牛の病気が原因で死んでいる。狂牛病だろうか。病気にかかった牛の乳を飲んだのである。父親のトーマスは、翌1819年12月2日に、3人の子持ちだったサラ・ブッシュ・ジョンソンと再婚した。リンカーンは、この義母サラに、なみなみならぬ愛情を感じていたという。ふうん、実母より義母かあ。ナンシーは非常にシャイで静か、信仰心に篤い女性だった。幼児だったリンカーンに聖書の話をいっぱい聞かせたという。一方サラは、どうやら荒くれの西部で生き抜ける強く、たくましい女だったらしい。夫にログキャビンの床やベッドを作らせ、子供たちを泉に連れていき、石鹸でごしごし洗ってやり、古い服を手直しし、新しい服を作ってやりと、とにかく働き者だった。17歳の時にすでに6フィート4インチだったリンカーンをからかって、サラが「せっかくきれいに洗った天井を汚さないように、頭をいつもきれいにしておきなさいよ」と言うと、リンカーンは、近所の小さな少年たちの足に泥をいっぱいつけ、彼らを逆さにもちあげ、天井を歩かせて足跡をいっぱいつけた。サラはそれを見て、怒るどころかげらげらと笑いころげたという。要するに、サラはユーモアのわかる、心の広い豪胆な女だったのだ。その義母にリンカーンが心を惹かれていたとなると、ふうん、リンカーンが、帰宅恐怖症にかかるほど強い女メアリと結婚したというのも分かるというものではないか。リンカーンは妻メアリに義母を探したのである。

 


 となると、ピータースバーグ近くにあるオークランド墓地に埋められているアン・ラットリッジとは、どんな女性だったのだろうか、と気にかかる。ニューセイラムに住んでいた時代のリンカーンの最初の恋人、永遠の恋人と、いろいろな資料が紹介する女性だ。婚約もしていたらしい。リンカーンが州議会のウイッグ党議員に選ばれ、法律の勉強を始めたのが1834年。1835年1月に、いっしょにニューセイラムで店をやっていたウイリアム・ベイリーが死に、同年8月に、アン・ラットリッジが突然熱病にかかり、ニューセイラムから7マイル北西にあったラットリッジ農場で、22歳の若さで死んでいる。リンカーン26歳の時だ。その時のリンカーンは気も狂わんばかりで、生きる力を失い、自殺するのではないか、と回りの人間たちは心配したという。が、アンは、リンカーンと婚約する以前に、2人の男と婚約していた。わずか22年しか生きていないのに、その短いあいだに3人の男と婚約する女なんてーと、ジーン・ベイカーはその論文の中で、女の目から見たラットリッジに批判的だ。(「リンカ−ン・イニグマ」ボリット編、38ページ)
 ラットリッジをあまりにもロマンチックに解釈しすぎる伝説が生まれたのは、後年、詩人エドガー・リー・マスターズが書いた詩のせいだ、とベイカーは主張する。
 オークランド墓地のラットリッジの墓は、あたりを陰でおおってしまうほど葉をおいしげらせた大木の下にあった。他の墓とは違い、回りは鉄柵で囲まれ、大きな碑が建っている。マスターズの長い詩である。


 「But of me unworthy and unknown the vibrations of deathless music! With malice toward none, with charity for all. But of me foregiveness of millions toward millions, and the benifice
nt face of a nation shining with justice and truth. I am Ann Rutledge who sleep beneath these weeds. Beloved of Abraham Lincoln, wedded to him, not through union, but through separation. Blown forever, O Republic, from the dust of my bosom!」


まあ誰でも、「合体ではなく、別離によって、永遠に結婚した」なんて謳われると、いやがおうでもその気にさせられるというものだ。しかし、マスターズは1868年に生まれているから(死亡は1950年)、ラットリッジを知るよしはなく、すべては彼の頭の中での想像ということになる。ベイカーによると、「釣った魚に餌はやらぬ」式の平凡な結婚生活の現実にうんざりした男たちの、女に対する勝手な夢物語ということらしい。
 ラットリッジ伝説のもう一つの要因は「死」だろう。同じ別れといっても、生別と死別では、ノスタルジアによる「美化」の度合いが違うというわけだ。学者たちは、リンカーンがラットリッジのことを生涯忘れなかったとか、いやそんなことはない、とかいろいろかまびすしい。が、一つだけ確かなことは、ラットリッジが死んだ直後はショックでも、「もう二度と恋も結婚もしない」というほどまで、リンカーンが彼女にうちこんではいたわけではないということだ。
 その証拠に、ラットリッジが死んだ翌年の1836年9月には、ニューセイラムのメアリ・オーウエンスとデイトを始め、1837年には結婚を申しこんだものの断られている。妻となったメアリ・トッドとであったのは1839年で、翌40年の秋に婚約したが、41年1月にいったん婚約を解消した。というのは、マチルダ・エドワーズという別の女性に恋をしていたから、だそうな。が、リンカーンは自分のしたことに深い罪悪感を覚え、記録に残るような鬱病となって、州議会すら欠席するはめに。結局、「あなたには私に対する道義的責任がある」とメアリに泣き叫ばれ、迫られて、42年夏メアリとの交際を再開、11月4日にはスプリングフィールドであわただしく結婚した。ラットリッジの死後7年がたち、リンカーンは33歳になっていた。
 当時、男性は24歳ごろまでには結婚していたから、リンカーンはかなりの晩婚ということになる。小さい時から力仕事をし、政治の世界で男たちの論理に囲まれていたから、女の扱いがよく分からなかった、という説もあるようで、そんなところから、リンカーンには同性愛者的な性向があったかも、ということになるらしいよー私がそう言うと、男友達にあっさりと言い返されてしまった。「そんなこと言ってたら、男はみんな同性愛者になってるよ。」

 私が今にやにやしながら読んでいる「大人の”男”になる85ヶ条」(弘兼憲史著講談社α文庫)という本の中に、次のような記述がある。「好きだからこそ、”女の怖さ”をひき出すな」ー女とうまくつきあい、恨まれずにきれいに別れるこつは「女を本気にさせないこと」だそうな。へへへ、リンカーンさん、失敗しましたね。メアリさん、本気になっちゃったんだ。後世まで、悪妻だの、リンカーンに嫌われていただの、結婚は失敗だっただのといろいろとりざたされて、メアリさん、どんな気持ちかなあ。今、墓の下で、「私の勝ちよ」といわんばかりに一番にこにこしてるのは、伝説の恋人に仕立てあげられたアンさんかも知れない。ところでどんな人だったのだろう。実母タイプか義母タイプか、ぜひ知りたいものだ。