「イリノイ探訪」

アルコラ(2)

 

気持ちのいい秋晴れの日だった。青い空に白い雲がぽかぽか浮かび、道の両側は収穫の終わったとうもろこしが連なっていた。青と茶、緑、白という四色の色のバランスが心地よかった。車は、平坦な道をただまっすぐに大きな空に向かって走った。たまらなく平和だった。1週間ほど前にニューヨークの世界貿易センターにつっこんだジェット機の凄惨な光景など、同じ国での出来事とはとうてい信じられなかった。身体は、アメリカにいながらアメリカとは全く異なった世界に入っていく開放感に満たされていた。ちょうどサウスダコタで、インデイアン居留地に向かって車を走らせた時のように。

 

 

 

アーミッシュコミュニテイを求めて、私はアルコラの町に入った。が、町そのものに何も変わったところはない。「なんだ、普通の家ばかり。なあんだ、普通の服の人ばっかり。あれ、教会もある。何よ、ここはただの普通の町じゃないの。」とぶつぶつ言い続けて、はたと自分の無知、愚かさに気がついた。どうやら自分は、19世紀の西部の町を再現したテーマパークにでも遊びに行くつもりで来たらしい。アルコラに入った途端、現代世界から全く遊離した、電気も電話もない、車も走っていない、とてつもなく異様な世界がぽっかりと浮かんでいるとでも思っていたのだ。この無意識の意識こそ、アーミッシュの人々をステレオタイプでしかとらえられない人間の浅はかさというものだろう。
 アーミッシュのロレナ・ホッシュステットラーさんの家で、昼ごはんを食べるツアーを予約していた。アルコラのダウンダウンから数マイル、畑地の間を縫う道をしばらく行くと、ワゴンの跡のついたじゃり道が始まる。向こうから馬車がやってきた。黒いバギーには、黒服と黒いボンネットに身を固めた女の人が3人、険しい表情で乗っていた。そうかと思えば、荷台に子供を乗せて馬の手綱をとる男性ともすれ違った。すれ違いざまに、男性はにこやかに手を振った。予期していなかった。ステレオタイプがまた破られた。


 

 

「普通」の家とアーミッシュの家との違いは、まず家のペンキの色だ。簡素さを表現するために、アーミッシュの家はただ白い。家の前に黒いバギーが「駐車」してあれば、間違いなくアーミッシュだ。見つかるだろうか、と不安にかられながらも、無事にロレナさんの家に着いた。“金持ち”なのだろうか。大きな白い家の裏庭にはバギーが6台ほど”駐車”してあって、厩舎には馬が何頭もいた。プロパンや自転車もあった。うろうろ、きょろきょろしていると、家の中から、足首まである地味なグレイのワンピースに白いエプロンとボンネットをつけた、眼鏡をかけたおばさんが出てきた。ロレナさんだろう。先着のツアー客といっしょに家の中に入った。客は全部で11人。家の中は確かに質素である。目につく家具といえばテーブルに椅子、箪笥が3つだけ。壁には額が2つほどがかかっていたが、それ以外の装飾品は一切なかった。本は一冊もなかった。テレビや電話、コンピュータはもちろんない。部屋に2つあるランプも下にプロパンがとりつけてある。古いシンガーの足踏みミシンが2台と、大きな裁縫はさみが3本目についた。天井には、ランプの灯りを反射させるためだろうか。アルミホイルの皿がとりつけてあった。
 

 

すぐに食事が始まった。白いパンにバター、サラダ、ポテトにグリーンビーン、ホームメードのヌードルにフライドチキン、ビーフボールに、レモン・アップルパイ、コーヒー、紅茶とフルコースだった。
面白かったのは、私も含めてツアー客はみんな最初、「アーミッシュの家庭で一体どんなものが出てくるのだろう」と不安げに思い、皿が回ってきてもほんのちょっとしかとらなかったくせに、一口口に入れて、「わあ、おいしい」ということになると、みんな二度、三度とお代りしたことだ。そのあたりの客の心理を向こうもよく心得ていて、ロレナさんはにこにこ笑っていた。すべてホームメイドという食事はたまらなくおいしかった。文化が感じられた。食事がすんで台所をのぞくと、人々の寄り合い場所にもなりそうな広い台所で、若い18歳ぐらいの女の子が、同じようにグレイのドレスに白いボンネットとエプロンをして、かいがいしく働いていた。自分の娘とえらい違いだ。髪を金色に染め化粧に余念のない娘に、白いボンネットをかぶせることはできない。大きな冷蔵庫にはプロパンガスが使われているのだろう。
 新しい土地を求めて、ダニエル・ヨーデル、デビッド・オット、ジョエル・ビーチー、モーゼ・ヨーデルの4人のアーミッシュが、ペンシルバニアから鉄道でアルコラにやってきたのは1865年のことだ。そのペンシルバニアのコロニーは、イギリス人のクエーカー教徒、ウイリアム・ペンが宗教の完全自由を達成しようと始めた”聖なる実験場”だった。そこへ、ヨーロッパでの迫害を逃れた人々が、「チャーミング・ナンシー号」で渡ってきたのが1720年代あたり。アーミッシュと呼ばれる人々は、1693年ドイツで、牧師ヤコブ・アマンが、世俗に迎合しすぎているとメンノナイト派を批判、より厳しい規律を求めてメンノナイト派から分離したときに誕生した。それではメンノナイト派とは何なのか。1537年オランダで、カソリックの神父メンノ・シモンズが再洗礼主義運動に参加、リーダーとなってから、再洗礼主義者はメンノナイト派と呼ばれるようになったとか。では再洗礼主義運動とは何か。1525年スイスで起きた宗教改革に端を発している。当時、プロテスタントもカソリックも幼児洗礼を行い、また教会と国は緊密な関係をもっていた。が、再洗礼主義者たちは、洗礼は信仰告白をした成人に限るとし、宣誓を拒否、その上国は教会の活動や教義に一切関係してはならない、無抵抗主義で国の戦争には参加しないと主張した。当時、成人洗礼は犯罪とされていため、再洗礼主義者たちは異端とされ、人々は袋に入れられ川に投げ込まれたり、容赦なく処刑されたという。多くはスイスや南ドイツの山奥に逃げ、教会をもたずに家で礼拝を行うようになった。その後、ヨーロッパからアメリカへ移住する人々といっしょに、アーミッシュたちは新大陸に移ってきた。キリスト教やその教義はちんぷんかんぶんの私には、理解が容易ではない歴史をアーミッシュの人々は背負っている。
 現在、アーミッシュはヨーロッパにはいない。アメリカ22州とカナダのオンタリオに住んでいる。大きなコミュニテイはペンシルバニア以外に、オハイオ、インデイアナ、イリノイ、そしてミシガンである。最初の3州にアーミッシュ人口のほぼ80パーセントが住む。イリノイのアルコラ・アーサー地域は4番目の大きさで、36平方マイルに現在約4200人が住んでいる。オールドオーダーと呼ばれる一番保守的な人々である。
 人々は、ペンシルバニアダッチと呼ばれるドイツ語方言を家庭と礼拝で話し、アーミッシュの学校では英語の読み書きと、ラテン語同様の、教養として古典ドイツ語を習う。神以外に彼らの信仰で一番大事なのは、家族、コミュニテイ、それから外部から隔絶した世界に住むこと、そして謙遜である。外の世界から自らを切り離すのは、聖書の「ローマ人の書」12章に「Be ye not conformed to the
 worldとあるからだそうだ。それゆえに電気も電話も認めない。ワイヤーによって外の世界とつながっ ているからだ。
 その一方、コミュニテイ内での結束は固い。礼拝は信者の家で持ちまわりで行われる。デート、結婚式、葬式などは全部家で行われる。結婚はアーミッシュ同士でないと許されない。外部世界の法律によって離婚は可能だが、アーミッシュのコミュニテイからは放り出される。彼らの日々の楽しみは、近所の友達や親戚を訪ねること。最近、アーミッシュのキルトが切手となって発行されたが、キルトが伝えるアーミッシュの価値観とは、強い労働倫理と職人気質の尊重、機能的なアートに家族やコミュニテイとの固い絆、愛情と思いやりの表現、そして相互訪問の尊重という。州、郡、連邦の税金はもちろん払うが、メデイケアや年金システムには参加しない。高齢者はコミュニテイ全体で世話をする。政府に依存することは自給自足、自助の教義に反するからだ。州や連邦の祭日にも従わない。
 日本語と日本文化の染みついた身体を引きずって、キリスト教を基盤とする英語世界で生きている私にとって一番興味があるのは、彼らの生き方がアメリカの主流社会の価値観やライフスタイルとどう折り合いをつけているか、という点である。キリスト教社会への同化を強いられたインデイアンたちは、抹殺されかけた伝統文化をよみがえらせることで、自分たちのアイデンテイテイを取り戻し、文化摩擦が生んだひずみやコミュニテイが抱えるさまざまな社会問題を自ら解決しようとしている。自分の民族文化が白人主流社会の文化価値と相反する状況の中で、インデイアンとアーミッシュの人々が共有するものは何かあるのだろうか。
 資料を読んでいてまず感じたのは、アーミッシュの人々が白人であり、ヨーロッパで異端とされたといってもキリスト教の一派であることに変わりはないためか、インデイアンの宗教のように徹底的に弾圧されたり、「いいインデイアンとは死んだインデイアンだ」式に、民族の抹殺をもくろむようなことは一切なかったことだ。結局のところアーミッシュは、主流社会の傍流を構成する白人移民であり、インデイアンと連邦政府間の戦争のような政治的な対立は一切なかった。
 アーミッシュとインデイアンの共通点といえば、集団主義に価値を見出し、個人主義を絶対善とする思考を疑問視する点だろう。アーミッシュにとって自分に注意を引く、たとえば写真をとられたりするのは罪に等しい。授業中に手をあげることすら個人主義的態度と考えるという。それは、インデイアンの子供たちが居留地外の学校で成功しにくい原因の一つでもある。自己主張は恥ずかしいことなのである。「能ある鷹はつめを隠す」といった諺を聞いて育った私としては、戦後民主主義のアメリカ的価値観に洗われた現代日本人が必死で逃れようとする日本的集団主義と、白人文化価値に取り囲まれたアーミッシュやインデイアンたちが固守しようとする集団主義とはどう違うのだろうか、という疑問が常に頭を横切る。
 私が感じるアーミッシュのもうj一つの魅力は、彼らの無抵抗の死生観である。自らの死をもって主君の過ちを正すといった武士道の世界から、死を美化する文化を身につけている私がラコタ族の文化に惹かれたのは、戦士だった彼らが、「いい日とは死ぬ日」と死を前向きに毅然と受け入れる価値観をもっていたからだ。一方アーミッシュたちは、移住初期のころインデイアンたちに襲われても、たとえ自己防衛でも戦うことを拒否、あえてインデイアンに殺されることを選んだという。無抵抗による死の受け入れがもつ、禅にも底通する深遠な思想が私には心地よい。
 しかし、政府にとっては”厄介”な思想に違いない。1755年のフレンチ・アンド・インデイアン戦争や1775年の独立戦争でも、アーミッシュは国の戦争行為に協力、参加しようとはしなかった。そのために、独立戦争の時は参政権を失い、税金を二倍払わなければならなかったという。第2次大戦でも、徴兵されたアーミッシュの若者たちの94パーセントは良心的兵役拒否者となった。インデイアンたちが経験した、存在すら否定してしまう迫害とまでは言えずとも、政府に差別的に扱われて、アーミッシュはさらに外部世界との接触を拒むようになっていく。 
 20世紀初めからアーミッシュが州政府と争ってきた問題の一つに教育問題がある。1930年代のペンシルバニアや1960年代のアイオワ、そして1972年にはウイスコンシンで両者は、教育を受ける・受けさせる権利と義務、親権・宗教的自由をめぐって争った。そして1972年、連邦最高裁は、州がアーミッシュの子供たちを公立高校に強制的に送るのは憲法違反だとの判断を下したのだった。アーミッシュの異世界ーつまりコミュニテイそのものを学校と考え、通学は5月まで、夏は親の仕事を手伝う、しかも8年生までしか通学せず、教えるのは州の免許をもたない、同じく8年生までの教育しか受けていないアーミッシュの教師で、算数、社会、スペリング、ライテイング、そして保健だけ、科学は教えないという教育方針が認められたのだった。インデイアンたちは高等教育を受けることで、白人社会に働きかけるチャネルを確保し、インデイアンの伝統と文化理解をより広い世界に広げようと考えるが、アーミッシュたちは、高等教育はアーミッシュのモラルに反し、子供たちをコミュニテイから奪うものと考えるらしい。
 アーミッシュの少年少女たちは、小さい時から、親の監督のもと職業訓練を受ける。女の子たちは12歳で料理をマスターするというから、「一歳から始める料理」という本を買ってはみたものの、結局娘のために本を開くことはなかった私としては恥ずかしい限りだ。
  最近土地も少なくなり、農業経営もむずかしくなってきて、木工技術を生かした家具ビジネスやキルトの制作販売が盛んになるにつれ、子供たちへの職業訓練は教育の大きな柱となりつつある。そこで政府が目を光らせているのが労働基準法の適用である。法によって、16歳以下の少年少女による電動器具の操作や、14歳以下の製造業への従事は一切禁止されている。アーミッシュの伝統は児童労働もしくは児童虐待に当たるのか。労働を覚えることは教育の一環であり非行を防ぐと考えるアーミッシュに対し、子供の安全と他の事業者に対してフェアではないと、法の無差別適用を主張する政府側。やはり溝を埋めるのは容易ではない。
 最近はビジネスを通して、非アーミッシュとの接触も増えている。アーミッシュといえば、科学技術を否定する偏狭な人間たちといったステレオタイプで見られることが多いが、実際は電話や電動工具、コピー機、車などは人々のあいだで受け入れられるようになっているという。とりわけ、ワイヤーのない携帯電話は喜ばれているらしい。バギーでは到底無理な長距離の旅行の際には、知人の車に乗せてもらうという。自分が所有することと、科学技術の助けを借りることは別ということらしい。
 しかしよく考えてみれば、アーミッシュといえども現代文明の恩恵から逃れることはできない。が、彼らは非常に洗練された判断を随時行っているといえよう。つまり、便利だからとなんでもいち早く受け入れ迎合したり、意固地になってやみくもに拒絶するのではなく、何をどんな時に、どんな風に使うべきかを考慮検討し、選択しているのである。夕食時の電話は迷惑だからと、個個の家庭で所有せず、コミュニテイを出た場所に公衆電話の形で留守電をとりつけ、あとでコールバックするといったシステムは、「人生、忙しくするほど暇はない」という、ある音楽家の言葉を肝に銘じている私としては、十分に納得がいくところである。
 アーミッシュは、非アーミッシュを「イングリッシュ」と呼ぶ。私も彼らにしてみれば、「イングリッシュ」になるのだろうか。8年生以上の知識は世界的な知識で、アーミッシュには必要ないと考える人々の世界観に、日本は存在するのだろうか。
 「誰がアーミッシュになれるのですか」−アルコラにあるアーミッシュセンターで私は、デイレクターのコンラッドさんに聞いてみた。インデイアンになるにはインデイアンの血が問われる。異人種との混血が進むと、インデイアンは確実に消滅する。アーミッシュはどうなのか。日本人でもアーミッシュになれるのか。コンラッドさんの答えは、アーミッシュが里子をとって養親になれば、異人種の人でもアーミッシュになることは可能という。つまりアーミッシュであるとは、その教会に属するということで、逆にいえば教会を離れればもうアーミッシュではなくなる。
 ふーん。アーミッシュでは、煙草や飲酒が奨励されているわけではないが、禁止されているわけでもない。宗教による食事制限はないとのこと。それならなれるかもしれないな、と一瞬思った。服装も、かつてはボタンすら装飾的と禁止されたが、最近は許されるようになったとか。流行のファッションに興味はなく、学校の制服で育った私としては、単調な服装にも耐えられるかも知れぬ、とも思った。ウエデイングドレスやリングの交換はなく、部屋に花を飾ったりハネムーンもしない結婚式が象徴する消費金満文化からの脱却は、「立つ鳥跡を濁さず」式にすっきりと日々を送りたいものだと願っている私にはぴったりだ。と、ほんのつかのま思ったものの、よく調べてみると、男は結婚するまでひげをそるが、結婚するとひげをのばす、口ひげは許されない、だの、既婚の女だけがエプロンをして、家の中で白いボンネット、外では黒いボンネットをかぶるなどなど、いやに細かく規則があるようで、万が一「反逆」でもしたら、それこそうるさくてうるさくて「村八分」にされるんだろうなあ、とか、いや「反逆」など考えない人たちなんだろうなあ、とか思いはじめると、「シンプルな生活をするのは決してシンプルではない」というコンラッドさんの言葉がいやに胸に沁みる。無理を感じるのは私だけではない。アーミッシュをやめる人は当然のごとくいる。アメリカの物質文明にとり囲まれてアーミッシュであることは、かつて命をかけて信仰を守った先祖たちと同じである。
 ロレナさんの家を辞して、ゆっくりあたりをドライブした。1時間に10マイルほどのスピードで進むバギーが、田舎道をのんびりと往く。車がその横をそっと通りこしていく日常世界。かと思えば、頭に白いボンネットをかぶった若い女の子たちが数人、談笑しながら自転車をこぎトレイラーをひいて、こちらに向かってくる。のんびりしていいなあ、というありふれた思いがぽっかりと非日常の宙に浮かぶ。町に近くなると、前にバギーが何台も駐車してある白い建物に出くわした。どうやらアーミッシュ経営のスーパーらしい。グレーのドレスを着た若い女の子が、紙袋を抱えて建物から出てきた。そして自分のバギーに袋をつみこむと、軽やかに御者台に上がり、手綱をとって馬を動かした。そして行き交う車の間を縫って道路に出、まぶしい陽光をあびながら田舎道をごとごとと去っていった。
 時々心だけアーミッシュになるのがいいかな、と思った。身体が無意識のうちに吸収していくアメリカのキリスト教的思考や価値観と、人格の核にある日本文化のエッセンスとの日々のせめぎあいにふっと疲れを感じる時、インデイアンやアーミッシュといった異文化は、私にはさわやかな清涼剤である。