「リンカーンの国から」
() フランス人と黒人奴隷

 

Text Box:  Text Box:  イリノイと黒人はなかなか縁が深いように思われる。イリノイといえば、この名前しか出てこないかのような「シカゴ」だが、シカゴに最初にやってきたのは、ハイチ生まれの黒人、ジャン・バプティスト・ドウサーブレである。1779年頃ミシガン湖に注ぐシカゴ川の河口、という一等地に定住し、ポタワトミ族の女性と結婚、20年ものあいだインディアン各部族と毛皮取引をして大成功、シカゴの礎となった人物である。切手にもなっている。

 北部自由州イリノイに黒人奴隷制はあったのか。もちろんあった。

 この北米大陸にインディアンしか住んでいなかった時代を別にすると、イリノイの歴史はフランス人とともに始まる。インディアンとの毛皮取引を目的にしてカナダに入ったフランス人たちが「ニューフランス」と称して治めていた広大な地域に、現代のイリノイも含まれていた。ジャック・マルケット神父とカナダ・ケベック生まれの若い毛皮商人ルイス・ジョリエットが、フランス植民政府の命を受けて、白人としてはじめてミシシッピ河を下ったのが1673年、9年後の1682年に、フランス生まれの探検家ラサールがミシガン湖からイリノイ川、そしてミシシッピ川に入り、ジョリエットたちが到達した地点を超えて川を下り、4月9日メキシコ湾に到達、河口に十字架を立て、ミシシッピ川流域をフランス領土としたのだった。

 以後、フランス人の冒険家やジェスイット宣教師たちがイリノイにやってきて、フランスの村をあちこちに作った。1718年になると、フランスはアメリカ領土を再編、イリノイカントリーはアッパールイジアナと呼ばれ、ニューオーリンズに置かれたフランス植民政府によって統治されることになった。当時フランスの植民地だった西インド諸島のハイチから、ニューオーリンズを経て、黒人がフランス人とともにイリノイに入ってきたというのは当然といえば当然である。

 1726年のイリノイにあったフランス村の総人口はわずか512人である。(カール・エクバーグ著「フレンチ・ルーツ・イン・イリノイカントリー」イリノイ大学出版局150ページ) もちろんインデイアンは数えられていない。1752年になると、フランスによるイリノイ支配の中心地となった砦の村、フォート・ドウ・シャ−ルツには、白人男性33人、黒人男性35人、白人女性41人、黒人女性25人、インデイアン男性13人、インデイアン女性23人、計200人近い人間が住んでいたとか。(前著152ページ)

 黒人たちはもちろん奴隷である。農地や、ウイスコンシン南部からイリノイ北西部にあった鉛鉱山で働いた。イリノイあたりは主要な農業地域となり、穀物はミシシッピを下ってニューオーリンズ、そしてフランスが統治するカリブ海の島々に輸出されていったという。イリノイはガリーナで掘り出された鉛もまたヨーロッパまで渡り、ナポレオン戦争で大砲の弾となったと読んで、「世界は小さい」を想った。

 フランス人の考え方や価値観は、イギリスやアメリカといったアングロサクソンのそれとは大きく異なっていた。フランス村の農業形態はコミューン、つまり共有財産の観念をもったオープンフィールドが特徴である。つまり、アメリカ人の個人の権利にもとづく土地所有ではなく、土地は基本的にコミュニテイが管理するものと考えた。どこかインディアンとも通じる考え方である。耕せない貧しい土地は共有地となり、家畜が放し飼いされた。黒人たちは、フランスの習慣に従い、フランス語を話したとか。

 考え方は、奴隷の扱いに対しても違っていた。1685年に西インド諸島統治のために作られたCode Noir もしくは black Code と呼ばれる法があった。1724年あたりから「ルイジアナ」でも使われるようになった。のちにアングロサクソンたちが作ったブラックコードと違うのは、黒人奴隷を動産として捉え、売買できるとはしているが、奴隷たちの人権を認める部分があった点である。奴隷たちには家や衣服、食事を与えられねばならず、思春期に達するまでは親から離して売ることはできなかった。所有主は奴隷に罰を与えることはできたが、奴隷は法の裁きなしにリンチにかけられたり、殺されたりすることはなかった。日の入り前、日没後に働かせてはならなかった。老人は大切にされ、子供たちは学校に通い、洗礼を受けることができた。結婚は所有主の許可を得ているのが望ましいが、本人の気持ちに反して強制的に結婚させることはできなかった。国の許可なしに奴隷を解放することはできず、しかも所有主が自分を虐待していると思えば、奴隷が所有主を訴えることもできた、などなど、55項目にわたって細かく規定されていた。確かにこの「黒人法」が新大陸でどれだけ実効性をもったかははなはだ疑問だが、それでもフランス革命を起こし、人権宣言を発表した実にフランスらしい法ではないか。

1755年からの7年戦争、別名フレンチインデイアン戦争の結果、フランスは英国に負け、ニューオーリンズをのぞいたミシシッピ川の東岸の領土を全部英国に渡すことになった。イリノイの英国時代到来である。