「リンカーンの国から」

 

20  弁護士時代

 

 

 弁護士リンカーンを見出したのは、妻メアリのいとこ、ジョン・スチュアートである。リンカーンは、まずスチュアートの事務所で働きはじめ、メアリと婚約破棄したころに、スチュアートの事務所を去り、次にスティーブン・ローガンの"いそ弁"となった。この"いそ弁"時代の1843年に、ローガンといっしょに構えた事務所のある建物がスプリングフィールドに現存、歴史的建物として公開されている。

Text Box:

 ローガンとのパートナーシップは、翌1844年に解消されたが、リンカーンはそのまま事務所を継続、3人目の旧知のウイリアム・ハーンドンとパートナーを組んで、新しく法律事務所を開いた。1844年は結婚2年後、家を買った年でもある。 

 

 ハーンドンとは、リンカーンのニューセーラム時代からの知り合いである。ハーンドンは1818年ケンタッキー生まれ、5歳のときに家族とともにスプリングフィールドに移ってきた。1836−37年に、エドワード・ビーチャーがいたイリノイカレッジに在学、それからのちにリンカーンの親友となるジョシュア・スピードの店で事務員として働き、法律に携わりはじめたのが1841年ごろ。どうしてリンカーンがハーンドンをパートナーに選んだかは誰にもわからない。ハーンドン自身もわからないという。

 

 二人は、夜と昼のような正反対の性格だったが、仲はよかったらしい。二人ともホイッグ党員、のちに共和党に入った。リンカーンは保守的で、全く酒を飲まなかったが、ハーンドンは荒っぽい性格で酒びたりだったとか。奴隷制に関しても、ハーンドンのほうがよほど廃止に熱心で、リンカーンのやり方は手ぬるいと批判、のちに自分がリンカーンの考え方に影響を及ぼしたと、ハーンドンは主張した。10歳年上のリンカーンは、ハーンドンをビリーと呼び、ハーンドンはリンカーンをいつも「ミスター・リンカーン」と呼んだ。リンカーンが第8巡回裁判で長期出張しているときは、ハーンドンがオフィスを切り盛りし、リサーチもしたが、退屈で死にそうだったとか。収入は二人で折半、パートナー関係は暗殺されるまでの21年間続いた。

 

 "いそ弁"時代から、ハーンドンといっしょに1852年まで使ったその事務所は、スプリングフィールドのダウンタウンのど真ん中、旧州議事堂の向かい側に一部残された建物の3階にある。裕福な商人セス・ティンズリーが1840−41年に建てた大きなギリシャ様式の建物で、今も使われている唯一のものだ。かつて一階には小さな雑貨店と郵便局、2階には連邦裁判所に判事の部屋や事務室、そして3階に弁護士たちが事務所を借りた。野心あふれる弁護士たちにとっては理想的な場所だった。道を隔てた向こう側には州議事堂に州最高裁判所、スプリングフィールドで最高のホテル「アメリカンハウス」も近くにあって、ロビーイストや弁護士との会合にはぴったり、郡裁判所も近かった。  

 

  23年間の弁護士業で、リンカーンは5100件以上の案件を手がけた。ほぼ1日1件の割合である。多くは、単なる書類準備にすぎなかったが、中には非常に大きな案件もあり、リンカーンやハーンドンたちは、400回以上イリノイ最高裁に出向いたという。

 

  リンカーンたちはどんな仕事をしたのか。基本的に「なんでも屋」だったが、とりわけ運輸交通問題は熱心に多く手がけた。イリノイ州の発展に欠かせなかった鉄道や河川交通への関心は、ホイッグ党支持のリンカーンとしては当然だったろう。1849年には、リンカーン自身が船のブイに関する特許をとったり、1850年にはイリノイセントラル鉄道の顧問弁護士になっている。そして、鉄道会社と株主との争いや、鉄道会社への州税免除の問題、ミシシッピ河で起きた船と鉄橋の衝突事故などを手がけている。鉄道会社の顧問弁護士になってから、ますます商売繁盛で、事務所を変わったのではあるまいか。

 

 資料を読んでいると、そのほかにも、イリノイのフランス時代を生きた先祖が1820年頃に政府に没収された土地の返還を求める訴訟も出てきた。要求は1867年まで続き、リンカーンも関わって文書を残している。

 

 リンカーンが一番好きだったのは巡回裁判だったという。町の洗練された人間という「ええかっこ」をしなくてもよかったからとか。リンカーンにとって、フロンティアの田舎生活が一番心地よかったのである。

 

  リンカーンが関わった刑事裁判で一番有名なのが、1858年に殺人罪に問われたウイリアム・アームストロングの弁護である。ウイリアムの死んだ父親ジャックとニューセーラム時代に友達だったリンカーンは、ウイリアムのことを聞くと、ジャックの妻ハンナに、ボランティアで弁護を引き受けると申し出た。そして、当時非常に稀だった戦術でもって、証言台に立った人物の嘘を立証、アームストロングは無罪放免となった。

 

 負けず嫌いのリンカーン、入念に準備を進めて勝訴を重ね、仕事では順調に成功した二人だが、リンカーンもハーンドンも部屋はきれいに片付けることができなかったとか。事務所は書類がちらかい、引き出しはあけっぱなし、リンカーンは壁のそばに置いた汚いソファにねっころがって、新聞を声に出して読む癖があったので、ハーンドンは仕事ができず、しばしば隣の連邦裁の陪審員部屋にもなるラウンジに行って仕事をしたという。

 

 もうひとつ、二人は金銭管理もうまくできなかったとか。リンカーンは、もらったお金の半分を封筒に入れ、案件の名前と「ハーンドンの分」と書くだけだった。ハーンドンのほうも、客から受け取ったお金を小さな麻布の袋に入れて、適当に二人が半分ずつ使うだけだった。ツアーで事務所を見にいくと、机の上に「Herndon's half」 と書かれたくしゃくしゃの封筒を見つけることになっていたが、私は見逃してしまった。

 

 リンカーンは、事務所で子供たちをしばしば遊ばせた。ウイリーとタッドはしたい放題の悪がきだったとか。本はほうりなげるわ、石炭の灰がはいったバケツを空にし、灰の上にインクスタンドや金のペンなどをいっしょくたにして、その上で飛んだりはねたりして遊んでも、リンカーンは何も言わなかったという。気性の激しいハーンドンはどんな気持ちで、リンカーンの息子たちを見ていたのだろう。 

 

  ティンズリービルの事務所を1852年ごろに立ち退いたリンカーンたちは、そこから1ブロック先に最後のオフィスを構えた。大統領に選出されたリンカーンは、弁護士最後の日、腕に本をいっぱい抱えて、オフィスを出た。そして見送るハーンドンに、看板はこのままにしておこう、そしてまたいつか戻ってきたら、何もなかったようにまた二人で仕事をしよう、と話し、二人は握手して別れた。そして、それっきりとなった。

 

  のちにハーンドンは、リンカーンを実際に知る人々を取材、死ぬ2年前の1889年にリンカーンの自伝を発表した。リンカーンの政治的野心を批判、また妻メアリを嫌悪していたことがよく知られている。