「リンカーンの国から」

 

(17) リンカーンの家庭生活

 

1842年、メアリ・トッドは、自分の家族・親戚にも、11月4日の結婚式の当日の朝まで、リンカーンとの結婚のことは口にしなかった。ウイッグ党の機関紙「サンガモ・ジャーナル」の編集長の妻、サイメオン・フランシスの勧めで、秘密裏に交際を再開した二人である。11月4日の朝に結婚の話を聞かされたメアリの妹エリザベスとその夫、ニニアン・エドワードは、「もうこうなったらしゃあない。式をあげるのなら、やっぱりうちしかないっしょ」といわんばかりに、自分たちの家で式をあげさせたのだった。

 

その夜、二人は週レート4ドルのホテル「グローブタバーン」に移り、そこに2年間住んだ。駅馬車の駅兼宿屋である。2階にある家具つきの部屋で寝て、食事は階下の共同食堂でとった。夜になると、リンカーンはよく食堂で、誰かれとなく話しこんだ。すると、階上からリンカーンを呼ぶメアリの咳払いの声が聞えてくる。時には夜中まで聞えてくることもあったとか。つまり、リンカーンは新妻をほったらかしにして、夜中まで話しこんでいたということである。ある朝などは、怒ったメアリが食堂でリンカーンの顔に熱いコーヒーをかけ、そばにいた他の間借り人がリンカーンの顔をふき、やけどの手当てをしたとか。まあ、二人の力関係と結婚がどのようなものだったか、容易に想像がつくというものだ。

 

翌1843年8月1日に長男ロバート誕生。貧乏時代のこと、ケンタッキー州レキシントンにいるメアリの父親が娘に、1年に120ドルの現金を渡していた。少女が家内労働で1週間に1ドル50セントを稼ぐ時代、かなりの大金である。パーテイもできず、パーティに呼ばれることもなくなったメアリにとっては、エドワード家の美しい家と家具が恋しくて、精神的にかなり落ちこんだ時代でもある。

 

やがて「グローブタバーン」が売りに出されることになり、リンカーンたちは立ちのくことになった。新婚さんには貧弱なところだったし、ましてや赤ん坊がいてはうるさがられ、文句も言われたろう。1843年秋、まず3部屋あるコテージに移り、その翌1844年1月に、スプリングフィールドの中心近く、弁護士事務所へも裁判所へも歩ける便利なところに1500ドルで家を購入、5月に引越した。自分たちの結婚をとりしきったドレッサー牧師の家である。メアリの父親には、町の南西に80エーカーの土地を買ってもらい、生活はやっと安定しはじめていた。

 

  リンカーンが自分の人生で買った最初で最後のこの家は、今、国の歴史的記念物に指定され、連邦公園局によって管理されている。部屋5つの1.5階建て、8エーカーの土地と裏庭には貯水池と井戸とポンプ、小さな小屋に野外便所があった。のちに家は2階建てに増築された。

 

ビジターセンターで整理券をもらい、30分に1度ほどのツアーが始まるのを待った。家に入れる人数を制限するのである。10人ほどで一組にされ、パークレンジャーに率いられて家に入った。どの部屋にもパークレンジャーが立っている。ものものしい。でもとりたてて何も言うことはない普通の2階建ての家である。台所にあるストーブだけがオリジナルとか。台所の大きさがリンカーンがかつて住んだログホームと同じ大きさで、この広さに家族4人が住んでいた、との説明を聞いて、ふ〜〜ん、出世するとはこういうことなんだ、と改めて思った。だってこのころ、リンカーンの両親はやはり同じ小さなログホームで、うんうん言いながら暮らしていたのだから。

 

ここでの結婚生活を一言で言うなら、やはり「すれ違い夫婦」だろうか。メアリは裁縫は大好きで上手だったが、料理がまったくできなかった。リンカーンは、一日のスケジュールがまったく不規則で、何時に寝起きし、食べるのかわからないという状況である。こうなると、女、とりわけ料理ができない女は料理をする意欲を完全に失ってしまう。このあたりは、同じ料理ができない女としてはいやというほど共感できるところだ。ところが、子供は夫のスケジュールとは関係なくお腹をすかすわけで、このあたりのめんどうくささは、現代と大して変わるまい。

 

 

Text Box:  

Lincoln House
家をきれいに飾りたい女にとっては、リンカーンはやっかいな存在だった。というのも、ログキャビンで育ち、洗練された生活を知らないリンカーンは、整理することを知らず、部屋でもオフィスでも紙は床にちらばり、泥が部屋のすみにたまっても平気、その汚い床にねっころがったり、椅子をさかさにひっくり返してそれにもたれたて本を読んだりするわけで、メアリがヒステリーをおこして、「あなた、何してるんですか、汚い、いい加減にしてくださいよ」と怒鳴りちらしただろうことは、これまた十分に想像できる。食事のマナーも知らず、来客があっても応対の仕方を知らず、服装にはむとんちゃく、ズボンの片足がまくりあがっていても平気、ピンクとブルーの違いもわからないのでは、と思わせるほどの一方で、いったん仕事に集中して考え事をはじめると、暖炉の火がなくなっても子供が泣いていても気がつかないという夫を、メアリは世話をし、有望な弁護士、紳士にしたてねばならなかったのである。

 

富裕層出身で、奴隷を使う生活で育ったメアリは、結婚して生活が一変した。慣れ親しんだ絹やサテンとは無縁となった。安物の服を着、息子の服はつぎはぎだらけ、1セントでも損をしないようにとかなりのけちになったらしい。たぶん病的なまでの強迫観念にとりつかれたに違いない。1861年3月、ワシントンで、大統領夫人としてメアリと握手した紳士は、メアリが手袋もせず、手を出した、その手は柔らかくなかったと記録に残している。要するに、彼女にしてみれば下降婚だったのである。

 

生活が安定して、召使を雇うことができるようになっても不満だらけ、小さなことで腹をたて、召使は長続きしない。ひどい頭痛に悩み、近所の人とけんか、夫にもあたり、夫は嫌気がさして事務所に逃げ込むという「帰宅恐怖症」の図式である。リンカーンは、内働きの人間の仕事が続くようにと、メアリには内緒で、陰で1週間に1ドル渡していたとか。さすがあ、のマネージメント能力である。メアリのかっとしやすく、冷めやすい癇癪をリンカーンは熟知、とにもかくにも我慢する、させるしかなかったのだろう。

 

そして、結婚生活がむずかしかった最大の原因は、リンカーンが、春に3ケ月、秋に3ケ月と巡回裁判所の仕事や選挙運動のために家をあけたことだった。のちに息子のロバートがインタビューされたとき、父はあまり家にいなかったので、父のことはよくわからないと答えるほどだった。たまに家にいるときは、自分の馬の世話をし、乳をしぼり、薪を自分で割ったそうだが、一年の半分は家にいないとなると、妻はさぞかし寂しかったに違いない。夫には、人間社会より、もうちょっと家族のことを心配してほしいとメアリは思っていたらしいが、女としては納得である。それにメアリの気性を考えると、たぶん寂しければ寂しいほど、リンカーンにはひどくあたり、リンカーンがますます政治世界に逃げ出す口実を作ったのではあるまいか。このあたりも、同じく気性の激しい女としては十分に想像できるところだ。

 

それでもこの家で、さらに3人の息子が生まれた。エドワード(1846−1850)とウイリアム(1850−1862)、そしてトーマス(1853−1871)である。リンカーンは、1834年から結婚する1842年までの8年間、イリノイ州下院議員を務め、結婚後はしばらく弁護士業に専念、2番目の息子が生まれた1846年に連邦下院議員に当選、1847年10月にワシントンに向かうときに家を貸しだしたが、1期だけを務めて、1849年に5月にはスプリングフィールドに戻り、弁護士業にさらに力を入れた。その翌年、次男のエドワードが4歳になる直前にこの家で死んでいる。たぶん結核だったろうといわれている。

 

悲喜こもごものこの家を、リンカーンが最後に離れたのは、大統領に選ばれてワシントンに向かったときである。一家は、もっていた家具のほとんどを売って、一年350ドルで、グレート・ウエスタン鉄道の社長、ルシアン・チルトンに貸し出した。ルチアン曰く、「金持ちでも貧乏でもない人の家」だったとか。メアリが、リンカーンに、家族に身も心も尽くしきった努力の結果である。

 

 1861年2月11日、一家は列車でスプリングフィールドを離れた。この家をリンカーンは2度と見ることがなかった。家は、その後もリンカーン家の所有のまま、人に貸されていたが、1887年にただ一人生き残った息子ロバートがイリノイ州に贈与、1972年に連邦公園局の管理下におかれ、今日に至っている。