「リンカーンの国から」

(15) スプリングフィールド−いそ弁リンカーン

 

1 1837年春にスプリングフィールドに移った28歳のリンカーンは、当時にしてはかなり「貰い遅れ」の感はあるが、それでも独身青年らしく「女」に関心をもち、その一方で、しっかりと仕事はして、政治家と弁護士という二つの顔を使いわけていた。

 

 ホイッグ党の院内総務ジョン・スチュアートの事務所で仕事をしながらー居候弁護士、”いそ弁”であるー、1838年8月州下院議員に3度目の再選を果たしている。翌1839年6月には、スプリングフィールドの市会議員にも選ばれ、9月からは新しくできた第8巡回裁判所の弁護士となった。以後大統領に選ばれるまで、ずっとこの仕事は続けている。毎年春と夏に、だいたい10週間で15の裁判所を馬で回るのである。一つの町で裁判が開かれるのはほんの数日だから、スケジュールはなかなかきついものがあった。リンカーンは、刑事・民事事件両方を扱い、不良債権やケンカ、土地争い、離婚、殺人、飲酒となんでもこいである。田舎町では、巡回裁判のある日は一種のお祭り気分だったに違いない。10月には、ホイッグ党の大統領選挙人に選ばれ、翌1840年からは選挙人としてもイリノイ南部各地で選挙運動を展開、8月には4度目の下院議員再選を果たすというめまぐるしさだ。そのあいだ、メアリ・トッドとデートもし、秋、婚約までこぎつけたのだから「さすがあ」だが、1841年1月、婚約破棄事件を起こして、議会を「さぼり」はじめた。

 

 リンカーンを雇っていたスチュアートさんは、「女がらみで議会をすっぽかすなんて、こりゃやばい男だぞ」とか思ったのではあるまいか。というか、スチュアートさんとメアリ・トッドは親類関係にあった。さすがのリンカーンも仕事がやりにくくなったに違いない。スチュアートさんの事務所を”首になった”リンカーンは、4月、スティーブン・ローガン法律事務所にころがりこんだ。「捨てる神あれば拾う神あり」といったところだろう。鬱がひどく、夏には3週間の休暇をとって、ケンタッキーのルイビルに親友ジョシュア・スピードを訪ねている。スプリングフィールドでの失恋のあと、ケンタッキーで見つけた女性と婚約したものの、これまた破棄して鬱になっているスピードを見て、リンカーンは元気を取り戻したとか。「人の振り見て、我が振り直せ」といったところだろうか。

 

 1942年、もう州下院議員には立候補せず、夏にはメアリ・トッドと交際再開。ところが、元気を出しすぎたのか、この時にリンカーンは決闘騒ぎを起こしている。口の立つ議論好きなリンカーンが決闘と聞いて驚いた。調べてみると、何やらリンカーンのめめしさ、小ささが浮き彫りにされるようで、ちょっと顔をしかめたくなった。将来大統領になる人物でもこの程度なのか。

 

ジェームズ・シールズという州下院議員がいた。リンカーンのホイッグ党に対抗する民主党議員である。1810年アイルランドに生まれ、26年にアイルランドからアメリカに移民、4ケ国語を繰る優秀な人物で、法律を勉強、イリノイ南部のカスカスキアで弁護士となった。わずか21歳のことである。政治に興味が出て、ブラックホーク戦争にも参加、リンカーンに遅れること2年後の1836年に州下院議員に当選した。有力政治家スティ−ブン・ダグラスに気にいられて、1839年に州の会計監査官となった。

 

 当時、土地投機で経済が過熱、1837年に国は大不況に見舞われ、銀行制度は破綻寸前となっていた。イリノイ州の財政も銀行もジリ貧で、ウイッグ党と民主党は銀行制度をめぐって激しく対立、シールズは負債者は額面通りに借金を返すべきだと主張したのに対し、どうやらリンカーンをはじめとするウイッグ党は、貨幣切り下げ価格の返済を主張したらしい。結局は、シールズの意見が通り、イリノイの銀行は「救われた」のだが、そのあたりを揶揄したのが、なんとメアリ・トッドとリンカーンだったのである。

 

 いったんリンカーンに婚約破棄されたメアリ・トッドは、しばらくシールズに興味を示していた。が、リンカーンが元気になると再びよりを戻し、まるでシールズに興味を示した自分自身を”笑う”かのように、うまくリンカーンをそそのかして、ウイッグ党機関紙「サンガモンジャーナル」に、レベッカという偽名でシールズの人格やアイルランド出身ーつまりカソリックーであることを攻撃する一連の投書をしたのである。書いたのはメアリだが、リンカーンも関わっていたらしい。怒ったシールズが編集者に投書の主をたずね、リンカーンだと知らされると、イリノイでは決闘は違法だったが、申しこんだというわけである。

 

 1842年9月27日、二人は、決闘地であるアルトン近く、ミシシッピ河岸のミズーリ州側にある「ブラーディアイランド」へ向かった。シールズより先に着いたリンカーンは、武器を選べと言われ、騎兵隊の大きな広刃のだんびらを選んだものの、シールズをなんとか思いとどまらせようと、6フィート4インチという身体で威嚇するかのように、頭上の木の枝をばっさりと切り落としたりして、時間つぶしをしたという。シールズに7インチの身長差がどれだけ優位かを見せつけたというわけだが、シールズをなだめることはできなかった。計算高いリンカーンのこと、決闘などしたら、勝敗には関係なく、自分のキャリアに傷がつくことは十分に承知だったろう。逃げるタイミングをはかっていたに違いない。今にも決闘という最後の土壇場で、ウイッグ党の院内総務と民主党員があいだにはいり、リンカーンもシールズに謝り、決闘はキャンセルとなったのだった。 

 

 リンカーンに挑戦したことで歴史に名を残した骨太シールズはその後、連邦裁の判事に指名されたり、米西戦争に従軍、手柄を上げて将軍になったり、民主党からイリノイ選出上院議員になったり、その後移ったミネソタやミズーリからも上院議員に選ばれたりしておおいに活躍、波乱万丈の人生をまっとうした。

 

 そしてリンカーンは2度とこの決闘の話をすることはなかったという。メアリ・トッドと共謀したおかげで、決闘騒ぎにまでなって、もうこの女からは逃れられない、と腹をくくったのではあるまいか。決闘事件から2ケ月も経たない11月4日、とうとうメアリに「首を差し出した」のである。