「リンカーンの国から」
(11) エドワード・コール知事

 

 1818年にイリノイが21番目の州になったとき、奴隷制が大きな問題となった。フランス人とともにはじまったユニークなイリノイの歴史ゆえである。イリノイ準州時代の知事、ナイナン・エドワードは、ノースウエストテリトリーでは奴隷制を禁止すると規定した連邦政府の1787年の条例は、イリノイにすでに存在している奴隷労働には適用されない、との判断を下していた。当然賛否両論がもちあがった。結局、妥協策が講じられて、イリノイでは奴隷制は禁止、しかし年季労働は許可、となったのが1818年の州憲法である。実質は年季労働も奴隷制も同じだった。以後、自由黒人には選挙権を認めない、といったブラックコードが作られていく。

 

 しかし、妥協案は結局のところ、奴隷制賛成派も反対派も満足させることはできなかった。4年後の1822年、イリノイで憲法を修正して、奴隷制を合法化しようとする動きが活発化した。政治家たちの中には、多くの奴隷所有者たちがイリノイを素通りして、ミズーリでプランテーションを開こうと奴隷を連れていくのに失望していた人間たちがいた。要するに、州の開発が遅れ、かつ連邦内で政治力を失うことを懸念して、奴隷制を州に導入しようとしたのである。奴隷制はいいものだという声が聞かれたわけでは決してない。それよりも、奴隷所有者たちがやってきたら、土地の値段が上がるという主張がなされた。つまり、税金が増える、州の財政が潤う、それが州のためになるという論理である。

 

 そんな流れに対抗して、イリノイを自由州にとどめるために奔走した政治家がいる。エドワード・コールである。コールは、アブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言に先立つこと40年、イリノイ最初の奴隷制廃止論者の政治家である。1786年にバージニアで生まれたコールは、彼自身が奴隷を所有していた。独立戦争時、父親は大佐で、ジェファーソンやマディソン、モンローといった大統領が訪問するような名家だった。プランテーションで多くの奴隷たちと奴隷制賛成派の親戚や友達たちとともに育った彼は、父親の死により、23才の時に広大なプランテーションと黒人奴隷を相続する。が、奴隷を所有する自分にどうしても気持ちがざらつくのだった。「貴族」コールの理想主義的な思想に、まだ時代が追いついていなかった。

 

 

 

 

 

 マディソン大統領の私設秘書を6年間務めたあと、好奇心に突き動かされたのだろうか、イリノイのシャウニータウンとカスカスキアにやってきたのは、まだイリノイが州になる前の1815年である。マディソン大統領がロシアへの外交使節としてコールを送るためにいったん東部に呼び戻したが、ロシアから帰ってくると、コールはカスカスキアに戻り、州憲法制定会議に出席した。イリノイは自由州になるべきだと確信したコールは、1819年に一度バージニアに戻り、プランテーションを売り払って、奴隷たちとともに西部にやってきた。途中、奴隷たちに、お前たちはもう自由だと宣言、自分とともに来ようが来まいが好きにしたらいい、自分についてくるなら、労働に対しては賃金を払うし、家族が農場に定住できるようにすると告げた。コールがイリノイに戻るに先立ち、モンロー大統領はコールを、セントルイスの対岸エドワードビルの土地事務所の登記官に任命、若いコールは威厳もあって有能だったので、すぐにイリノイで名がよく知られるようになった。 そのころ、イリノイの州都は南のカスカスキアから中部のバンダリアに移った。

 

 イリノイに来てから3年後、奴隷制反対候補者として知事選に出馬、奴隷制賛成派候補者二人と反奴隷制候補者一人と争った。コールは投票者の3分の1を獲得して知事に選ばれたが、奴隷制賛成者が副知事となって、議会をコントロールした。そして、憲法を修正して奴隷を合法化しようとする議会とのあいだで「戦い」がはじまったのである。

 

 翌1823年、コールは、議会を煽るかのように、1)奴隷と年季労働者を自由にする 2)ブラックコードを廃止する 3)黒人を誘拐から守る、という画期的な法案を提出した。反コール派が優勢な特別委員会では、バージニアがフランス人に奴隷制を保障したことが1787年の条例に優先する、イリノイはほかの州と同様憲法を修正する権利をもつと主張した。憲法修正のためには、1824年の選挙で有権者の3分の2の獲得が必要だった。

 

 一方、奴隷制反対論者たちは別に、独立宣言や人権宣言に反しているからと反対したわけではない。それよりも奴隷制は泥棒を増やしたり、人種戦争の恐れがある、また奴隷所有者は「人の上に人が立つ」という社会のヒエラルキーを作ると警告した。また奴隷は、労働力の不足を補う個人的な所有物であり、政府が介入する問題ではない、と考える人間も多かった。貧しい白人の農夫は、奴隷所有の大農場主とは競争できず、奴隷制廃止を考えた。また黒人がイリノイに来るのをいやがる人間も反対した。人道上の理由で反対する少数派もいただろう。

 

 憲法修正キャンペーンは1年半近く続き、人々は奴隷制問題と深くかかわった。結局、1824年の住民投票の結果、コールと奴隷制反対派は6640対4972で賛成派を退け、イリノイ州の憲法は修正をまぬがれ、奴隷制禁止を謳い続けたものの、コール派へのいやがらせは続いた。結局、この住民投票がコールの最後の政治的勝利だった。1822年から26年の任期を終えると、エドワードビルの農場で退職、広く旅行して、セントルイスでの不動産投資で財産を築き、1832年にイリノイを離れて、フィラデルフィアに移っていった。

 すべての人の平等を強く信じ、イリノイが自由州であり続けることに大きく貢献したコールである。が、彼の懸命な努力にもかかわらず、イリノイでは州憲法に違反して、奴隷は1840年代まで、年季労働者は1880年代までいたことがわかっている。

 

 そして、コールと入れ違いのようにして、イリノイに入ってきたのがリンカーンだった。イリノイがまだインデイアナ準州の一部だったときの中心地、ヴィンセンヌからワバッシュ川にかけられた橋は、今日「リンカーン・メモリアル・ブリッジ」と呼ばれている。美しいワバッシュ川にかけられた橋の西のたもと、すなわちイリノイ側にはリンカーン・トレール・ステート・メモリアルが立っている。1830年3月6日、リンカーン一家がイリノイ州に最初に足を踏み入れたのを記念するものだ。

 

 横26フィート、縦9フィートのライムストーンの大壁面に、リンカーン一家のレリーフが彫られている。幌つきワゴンをひく牛のあとを一家がぞろぞろと歩いている図で、壁面の前に若いリンカーン像が立つ。どうやらリンカーン一家は天使に守られて、ワバッシュ川を渡ったようだ。