「リンカーンの国から」
(
10) 製塩業と奴隷

 

イリノイは湖と川に囲まれた州である。西の州境はミシシッピ河、南はオハイオ川、南東部はワバッシュ川、そして北部はミシガン湖である。

イリノイとインデイアナの州境となるワバッシュ川と、イリノイとケンタッキーの州境となるオハイオ河が合流する地点に、オールド・シャウニータウンという地名がある。先史時代のインデイアンの埋葬マウンドがあるシャウニータウンはかつて、トレーデイングポストとして、また塩の船積みで栄えた町だ。が、1937年のオハイオ川の大洪水で、銀行の2階まで水に浸かり、大半の住民は移動、新しいシャウニータウンを作った。オールド・シャウニータウンには、今はもう打ち捨てられたようなモービルホームが点々としているだけだ。古いくずれかけた家屋もそこここに残っていた。それでも、裏さびれた風景のどこからか、かすかに甘い味が漂ってくるような気がする。遠い昔の見果てぬ夢の味である。目の前のオハイオ川を越えてケンタッキーに入り、そこからイリノイ側を見やると、樹木に囲まれた大きな裁判所の建物がまず目にとびこんでくる。たぶんそれがかつてのシャウニータウンの中心だったろう。裁判所前の川の土手には、ホテルの礎石が丈高い雑草にうずもれていた。ホテルのバルコニーに人が集まり、グラスを片手に川面を見やりながらさざめいている旧時代の賑いが、草のあいだからたちのぼってくる。

 

Text Box:  
シャウニータウン
 18世紀のフランス人とインデイアンとの交易で、毛皮以外に重要な取り引きとなったのが塩だった。イリノイ南部、シャウニータウンあたりが、アパラチア山系の支脈であるアレーゲーニー山脈の西で一番古い、それも唯一の塩づくりの場所となった。

 グレート・ソルト・スプリング(大塩泉)は、オハイオ川の支流であるサリーン川にあった。もともとポイズンアイビーにおおわれた森林地帯で、サリーン川の南岸に沿って500メートルにわたり製塩業が行われていた。古い井戸を掘ってみると、わずか地中3ー4メートルのところでインデイアンたちが使った道具、たとえば塩水を蒸発させるための土器や土器を焼いた窯のあとなどが見つかっている。炭を調べると、インデイアンたちは、森に倒れている枯れた木を燃やして塩を作っていた。塩を作るのは1年で1度の季節だけだったらしい。インデイアンは冬にこの地に狩りに来て、塩を作り、フランス人が買い上げたり交換していた。

その製塩業をひきついだのがアメリカ人と奴隷たちである。1787年の条例ではノースウエスト・テリトリーへの奴隷導入を禁止したが、1818年のイリノイ憲法は、製塩業での奴隷制は合法と認めた。川を隔てたケンタッキーから数百人もの奴隷を連れてきて、塩を作っていた。川の塩水を沸騰させて結晶にして取り出し、樽詰めにした。1日に80から100ブッシェルの塩が作られ、ワゴンに積み込まれて、シャウニータウンに運ばれてきた。それから船に積み替えられ、インデイアナやミズーリ、ケンタッキー、テネシーなどへ運ばれていった。

 

 

Text Box:  
(click for big picture)
 多くの黒人労働者が木を切り倒したり、火をくべたりするのに連れてこられた。年季労働者もいれば、ミズーリの奴隷所有者から貸し出されてきた人もいた。当然、財をなす人間が現れる。ジョン・クレショーなる人物は、塩の製造のかたわらで、奴隷の売買もしていたと言われている。奴隷州と接していたイリノイ南部は、南部と同じ文化価値観を共有していた。自由黒人をだまして誘拐し、川を隔てた南部州に奴隷として売買することなどたやすいことだったに違いない。大人一人が400ドル、子供が200ドルだったとか。1830年代にサリン川を見下ろす地に3階建ての大きな家を建て、売買するための奴隷を閉じ込めた部屋があったといわれている。

連邦政府の条例を無視、奴隷制を合法として可能となったイリノイの製塩業は、多いときで1日に500ブッシェルもの塩を作った。終了したのは南北戦争後の1875年頃である。