悪気がない」で人格無視を許す村社会

(原題 「あなた、○○みたい」で、国際人になる?)

(人民新聞 2006年8月5日号)

 

 

 本紙で、私は一度読者に問うたことがある、「和田アキ子みたいって誉め言葉?」と。特に答は頂かなかったが、それぞれの人が和田アキ子というタレントの何を見て、どう評価するかによって答は違ってくるのでは、と想像している。

 

 先日、知人に同様のことを言われた。「昔私が眼鏡をかけてたら、あられちゃんみたい、ってよく言われたわよ。それと同じよ。言う人に悪気はないのよ。

 

 あられちゃんと和田アキ子の違い、言われていやだったらはずすことのできる眼鏡と身長の違いーいろいろな考えが浮かぶコメントではあったが、これだけは譲れない、と心に深くひっかかったのは、「言う人に悪気はない」で問題をもみ消し、無罪放免しようとする日本人の意識である。と同時に、そういえば、この20年に及ぶアメリカ生活で、アメリカ人同士が、あなたは○○みたい、と言っているのは聞いたことがないなあ、と改めて気付いたのである。

 

 「悪気がないから」で矛をおさめさせようとするのは、日本社会が擬似家族的甘え、もしくはの体質をもつからだろう。どうやら村人たちは、あなたは○○みたい、と他人と比較し、口にするのが大好きのようだ。悪気がなければいい、言われる人の気持ちなど無視という甘えが村の不文律である。言われた村人は、いやだなと思っても、悪いことは悪いと切り返さず、かれらの甘えに目をつぶるのが村人たる資格条件である。

 

 それにしても、なぜ村人たちは、あなた、○○みたい、という比較がそんなに好きなのだろうか。学校で徒競争すれば、みんなでお手手つないでゴールしましょ、といった「平等」がまかりとおる村だけに、本当は、みんな心のどこかで「私はあんたとは違うのよ」と思っている、もしくは思いたいのではないだろうか。「みんな同じ」という村の建前の掟が厳しいだけに、村人たちは密やかに比べあい、その場限りのわずかな優劣を見出してほくそ笑んでいるのではないのだろうか。他人との密やかな比較・差違化は、時には流行の「モノ」の値段やブランドの違いだったり、「負け犬」「勝ち組・負け組」といった社会的レッテルだったり、または「あなた、和田アキ子みたい」といった「悪気のない言葉」であらわになる。

 

 個が確立しているアメリカで、勝ち組・負け組といったレッテルがまことしやかに全国的に受け入れられてベストセラーが生まれ、人々が右往左往することなどありえない。たとえ比べる対象基準が有名な美しい女優であっても、「あなた、○○みたい」と面と向かって言うのは、侮辱ととられる可能性大である。悪気があろうとなかろうと、たとえ「きれいな人だよ」と言い訳しても、誉め言葉というよりは人格無視に近くなるからである。

 

 頭でっかちの官僚エリートたちは「小学校からの英語教育」を薦めている。たとえ英語が話せるようになったところで、たとえば大きな人間に、「あなたは自由の女神みたい」(私が実際に日本人の男に英語で言われた)「あなたは東京タワーみたい」「あなたは小錦みたい」(アメリカ人男性が日本で日本人に英語で言われた)などと、英語では決して言ってはならないと一体誰が教えるのだろうか。悪気がないというだけで、「あなた、○○みたい」を許してしまう村の掟は、村の外では決して通用しない。私が悲しいのは、そんな村外の現実を口にする人間を、村人の資格なしと切り捨ててしまう村の偏狭さである。