英訳への趣意書

 

 

 戦後60年のあいだに、第2次大戦中における日系アメリカ人の強制収容に関しては、あまたの書物が出版されてきた。

この強制収容問題は、1988年に時のレーガン大統領が補償金の支払いに合意、1990年から支払いが始まったことで、いちおうの決着をみている。が、それでも今なお、書物のみならず映像によっても、強制収容の歴史を語り継ごうとする人は跡を絶たない。それはとりもなおさず、この歴史がいかに深い傷跡を日系人コミュニテイに残したかということを如実に物語っているといえよう。

 

深い傷あとは、単に日系コミュニテイ対連邦政府という一元的な対立によってのみもたらされたのではなかった。実は、これまでほとんど語られることがなかった、日系コミュニテイ内部に生まれた亀裂こそがこの強制収容の歴史をより悲劇的なものとしたのである。

 

サウスダコタに7年住み、インデイアン問題に取り組み、現代オグラララコタ族に関する著作もある著者は、その内部亀裂にインデイアンの歴史を重ねあわせた。そして、インデイアン部族間の戦争同様、日系人同士を相争わせようとした連邦政府のやり方に、コミュニテイそのものを消滅させようとするかのような政府の遠大かつ暴力的な意図を感じたのだった。それは、日系人を収容所に追いやった事実以上に、罪深いことだったのかも知れないのである。

 

本書は、今日まで日系アメリカ人が口を封じてきたこの内部亀裂の歴史に、これまで誰も試みたことのない社会言語学的、異文化コミュニケーションの視点から迫り、強制収容の歴史の人間的な側面をあぶりだそうとするものである。

 

かつて、「帰米二世」と称された人々がいる。今は死語となりつつある「帰米二世」とは、アメリカ市民でありながら、家庭の事情や1世だった親の意向で、戦前に日本で教育をうけて日本語を母語とする日系アメリカ人二世のことである。悲劇は、日本がアメリカの敵国となる異常な状況で、自らが決して選択したわけではない、むしろ運命の一部とさえ言える母語が、人々を差別し、かつコミュニテイから葬り去る政治力を発揮したことである。親から受け継ぐ血と同様、誰にも選択の余地のない言語に翻弄された帰米二世たちの人生は不条理そのものと言えるだろう。

 

外見こそは違うが中身は白人アメリカ人と同じだ、と英語を繰って自由自在にアメリカ主流社会に向けて証明できる英語話者二世と、あからさまな人種差別がまかり通る当時の社会で、言語的ハンデイキャップのために庭師か洗濯屋、メイドといった職業にしかつけなかった日本語話者二世との対立は、強制収容と忠誠登録質問という政治的手段によって決定的となる。理由が何であれ、忠誠登録質問を拒否した人々は、Pro Japan という政治的レッテルを貼られ、コミュニテイの恥として日系史からは完全に黙殺、封印、抹殺されてきた。

 

確かに、補償金問題が決着するまでは、コミュニテイが一丸となって闘う必要があったかもしれない。身内の"恥"をさらすわけにはいかない、という気持ちも働いたかもしれない。しかし、我々が忘れてはならないのは、戦時中という困惑と混乱の異常な状況下で、人々は、どんなことをしてでもいきのびなえればならない、というサバイバルの強い欲求につき動かされていたことであろう。日本でもアメリカでもどこでもいい、自分にとって家族にとって、最善の道を選ばねばならなかった。

 

しかし、これまでの歴史書は、忠誠登録に「ノーノー」と答え、日本帰国を望んだという事実をただ政治的にのみ判断し、日本忠誠派という政治的レッテルのみに目を奪われ、その是非を問うだけで、サバイバル模索という実に人間的な欲求に目を向けることはほとんどなかった。

 

なぜサバイバルという人間的側面がこれまで無視されてきたのか。内部亀裂をめぐる日系社会内の政治的背景のみならず、ここでも言語の問題を看過するわけにはいかない。これまで出版されてきた日系アメリカ史の書物や映像、そのための資料は、当然英語話者の視点をベースにしている。帰米二世という日本語話者へのアプローチ、リサーチは、英語話者の研究者、取材者にはむずかしい部分があるのは否めず、そのため彼らへの"人間的なアプローチ"はほとんどなされてこなかったのである。

 

日本語話者である著者が取材した帰米二世の多くは、カリフォルニア州にあったツールレーキ隔離収容所で、Pro Japan というレッテルを貼られた、"不忠誠"の過激派グル−プとされた「即時帰国奉仕団」や「報国青年団」の一員である。彼らは歴史書で忌み嫌われ、汚名を着せられたまま消え去ることが長年期待されてきた人々である。天皇信奉を教えているとのみ歴史書で糾弾された日本語学校の校長、ツールレーキからノースダコタ州にあった司法省管轄の収容所まで送られた人、トラブルメーカーとしてユタ州のモアブ、さらにはアリゾナ州のリュップまで収容所をたらい回しにされた人、ツールレーキからニューメキシコまで送られ、それから日本に帰国したが、アメリカへの思いを断ち切れず、英語を教え続けた人―日系の、ひいては主流の英語世界では、「日系人の落ちこぼれ」「コミュニテイの不名誉な恥」とされた政治的なレッテルの下に、どんな人間的な思いが隠されてきたか、これまでの歴史書には決して記録されることのなかった、彼らが人間として日本語で思い存分語った肉声が、本書にはあますことなくあふれている。

 

日系史の正道として記録に残されるべきなのは、英語話者の、とりわけ連邦政府に協力する側に立てた人間の一方的な声だけであってはならない。帰米「不忠誠派」の生の声もまた、当時の日系社会のあり方を証言する歴史的意義をもつ。とりわけ、今日までタブーとされてきた問題だけに、かれらの具体的な経験や考え方の意味は測り知れない。もうすでに、故人となられた方もいる。彼らの証言は貴重以外の何物でもないのである。

 

戦後60年が過ぎ、モデルマイノリテイとされる日系アメリカ人コミュニテイも、4世、5世がアメリカ社会に深く根付き、社会の多様性を謳歌する時代となった。コミュニテイを二分した深い爪あとも、多様性の歴史の一部として語り継がれ、癒されねばならない時がついに訪れている。

 

今、我々が忘れてはならないのは、この言語の政治力をめぐる内部亀裂の歴史は、決して戦前の社会に限られるものではないということである。現代にも、そして将来においても、アメリカ社会に新しく移民が流入していくる限り、アメリカ社会に完全同化可能な英語話者世代と、"フレッシュオフボート(fresh off boat)"と呼ばれる、アメリカに来たての1世となる母国語話者とのあいだの思考、行動規範の差違、そこから生まれる摩擦は、常に古くて新しい問題となろう。

 

 著者は、9つものインデイアン居留地が作られたサウスダコタに、日系人強制収容所が作られた内陸の人里離れた不毛な土地を見た。そして、「連邦政府にとって、日系人もインデイアンも同じだったんだ」という思いを胸に、収容所や居留地が作られる土地で生活しながら、日本語人である自らと英語人に育つ娘との経験、摩擦を連動させて、帰米二世たちが辿った道を描こうとする。それは、日系人強制収容の歴史を単なる戦時中という過去の遺物として処理するのではなく、過去から現代、そして未来へとより広く深いパースぺクテイブを与えることで、日系史の戦時中の悲劇をよりプロダクテイブに、アメリカ史として記録に残そうとする試みである。