リンカーンの国から

 

(58)1865年―ジョン・ウィルクス・ブース

 

 

南北戦争、いよいよ最後の年である。リンカーンの人生最後の年でもある。

 

1864年11月、リンカーンは、さまざまな党の戦略がぶつかりあう中で、無事に再選された。1860年の大統領選挙では、民主党が北部と南部に分かれたために、一枚岩だった共和党が勝つことができたのだが、1864年の大統領選挙では、今度は共和党が二つに分裂していた。奴隷制を即刻廃止せよとする急進派は、リンカーンのやり方がのろい、とリンカーンを批判したが、実は、その急進派が共和党の多数派だった。一方、民主党も、北部民主党の中で戦争派と平和派に分かれてしまっていた。戦争派が北部民主党の大勢を占め、北軍を軍事面では支持していたが、リンカーンのやり方は批判していた。どちらかといえば、急進派共和党に近かったのだろう。一方、平和派民主党は、大半が中西部の人間で、連邦は維持したいが、共和党は、自分たちの利益のために、南部を分離と戦争に追いこんだと非難、平和交渉を望んでいた。リンカーンを再選に導いたのは、国民連邦党として結束した共和党と戦争派民主党である。

 

リンカーンさん、いろんな党利党略に取り囲まれて、さぞ頭が痛かったことだろうなあ。。でもまあ、誰に何を言われても、どんなに嫌われていても、自分のやり方、考え方を通すのが、リーダーがリーダーたる所以かも知れないけれど、殺されても当然、というリスクも背負っていたことになる。

 

2月1日、リンカーンは、奴隷制廃止の憲法修正第13条案を州政府に送ることを許可。2月3日、ヴァージニア州の、リバークイーン号の船上で、南軍の代表と4時間にわたって会談。3月3日、黒人のケアのためにFreedmen's Bureauを作る法案に署名。

 

Text Box:  3月4日 ワシントンにて第二回就任演説。リンカーンは、聖書の言葉をひきながら、「南北とも戦争が現在のように拡大し継続するとは予期しませんでした。この戦いの終結とともに、あるいはそれ以前に、この戦いの原因となったものが消滅しようとは、両者とも予測していませんでした。各々もっと容易な勝利を予期していたのでありまして、またこれほど重大なまた驚くべき結果が生じようとは思っていませんでした。両者とも同じ聖書を読み、同じ神に祈り、そして各々敵に打ち勝つため、神の助力を求めています。他人が額に汗してえたパン(創世記3,19)を奪おうとして正義の神の援助を求める人があるということは、不可思議に思えるでありましょう。(中略)もし神の意思が、奴隷の250年にわたる報いられざる苦役によって蓄積されたすえての富が絶滅されるまで、またむち(天からの惨禍)によって流された血の一滴一滴に対して、剣によって流される血の償いがなされるまで、この戦争が続くことになるならば、3千年前にいわれたごとく、今なお、「主のさばきは真実にしてことごとく正し」(詩篇19,9)といわなければなりません。」(「リンカーン演説集」岩波文庫 155−6ページ)

リンカーンさん、奴隷解放は、南北戦争の目的ではなかったとはっきりと言っている。かつ「神の意思」を持ち出すことで、戦争の正当化も図っている。そして、演説の最後は、「なんびとに対しても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、神がわれらに示し給う正義に堅く立ち、われらの着手した事業を完成するために、努力をいたそうではありませんか。」ああ、堂々とした戦争続行宣言である。慈愛をもちながら、どうやって人が殺せるの。「わが国民の内に、またすべての諸国民とのあいだに、正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。」平和のために戦争をする、というわけだ。日本への原爆投下はアメリカ人の人命救助だった、と同じ論理だ。テロとの戦いも同じである。ああ、いやだ。

 

すでにこのころには、リンカーン暗殺の気配が漂っていた。1863年ごろから、南軍はリンカーンをつかまえ、戦争捕虜としてリッチモンドへ連れていこう、という計画をもっていたし、リンカーン自身、殺すという脅迫の手紙をいっぱい受け取っていた。就任演説の日は危ないぞ、という憶測も飛んでいた。「大統領」となるとかっこいいかも知れないが、何年にもわたってずっと不穏な空気に囲まれ、身の危険にさらされるとなれば、やっぱりやんぴ、だ。。(笑)

 

3月11日 兵役に戻った逃亡兵には恩赦を与え、戻らなかった逃亡兵からは市民権を剥奪すると宣言。3月17日 予定されたとおりにリンカーンがSoldiers' homeに到着しなかったおかげで、ジョン・ウィルクス・ブースの誘拐計画は失敗。のちにリンカーンを暗殺した有名なシェークスピア俳優である。ブースは、南軍の捕虜を解放させようと、数ケ月前からリンカーンの誘拐を計画していたのだった。

 

Text Box:  メアリランド出身のブースは白人至上主義者で、熱烈な南部支持者だった。歴史家マイケル・カウフマンは、著書「アメリカン・ブルータス」の中で、メアリランドという土地柄が暗殺の鍵だと言う。メアリランドは、北部と南部の中間にあり、連邦から離脱したわけではないが、忠誠心は二手に分かれ、人々の気持ちは非常に屈折していた。それはブース家も同じだった。(81ページ)ワシントンに近接しているため、戦争が始まるとすぐにリンカーンは、人身保護令を中止するなど、メアリランドの人々の自由を押えにかかった。そのため、リンカーンは専制君主だと、反リンカーンの憎しみは、南部のどの州よりも強かったという。

 

ブースの父親は、1820年代初期にイギリスからメアリランドに移住してきた"移民"で、しかも全米68の市で2800以上の舞台を務めて人気を博するという俳優だった。非常に恵まれた、それもどちらかといえばリベラルな家庭だった。奴隷は所有しなかったが、一定の期間、借りることはあったとか。1838年5月10日生まれの9人目の息子ジョンも、父親の影響を強く受け、俳優になった。そして25歳までに、すでに一年に25000ドルと、大統領と同じぐらい稼ぐ人気俳優となっていた。若くて非常にハンサム、頭はいいし、声もよく、身のこなしは軽やかで、とてもおしゃれで、女子供には優しく、熱情的で、感性の鋭い俳優だったらしい。口ひげをはやした、細面・細身のイケメンの顔を見て、納得である。(笑)兄のエドウィン・ブースも、俳優として大成功を収めたが、弟と違い、リンカーン支持派だった。このエドウィンの芝居を、リンカーンは1864年初めごろに、何度も見に行っている。ときには、日本人ヒコとも会った右腕のウィリアム・スウォードといっしょに見に行って、芝居のあと、スウォードの家でエドウィンと歓談の時間をもったりしたという。(127ページ)

 

一方、弟ジョン・ブースのほうは、19歳ぐらいから俳優として活動を始めたが、若くして政治色を強め、新移民とりわけカソリック移民を嫌い、攻撃する「ノーナッシング」の会合に顔を出したり、1859年の過激派奴隷解放論者ジョン・ブラウンの絞首刑を喜んで見に行ったりしていた。奴隷解放論者を憎み、国が分裂したのはかれらのせいだと強く非難していた。同じ親から生まれた兄弟といえども、性格はぜんぜん違うわけで、人間とはほんとにむずかしい。案外、兄への反発・競争といったものもあったかも知れないなあ。

Text Box:

ジョン・ブラウンは黒人に武器を渡し、武装蜂起させようと、バージニアにあった連邦の兵器庫、ハーパーズフェリーを襲撃した人間である。ジョン・ブースは、自分が憎む奴隷解放論者といえども、密かに"謀略"を企てたブラウンが持っていたオーラに惹かれたという。たった一つの暴力によって、世界を変えるーまだ21歳だった若いブースの頭に、リンカーン暗殺につながる密かな喜びが生まれたらしい。(107ページ)奴隷解放といった政治信条よりも、俳優が持つ鋭い感性が人生のその後を決定したということか。頭が考える理屈ではなく、身体が勝手に動いて。。。ということはよくあることだ。俳優だから、変身はお手のものだし、上流階級の人間にも自由に会えるわけで、秘密の使命を帯びたスパイの役は役者冥利に尽きる、といったところだったろうか。このブースの芝居「The Marble Heart」を、リンカーン夫婦は、1863年11月に、こともあろうに、後に殺されることになる、改築されたばかりのフォード劇場で見ている。リンカーンが、あとでお会いして、握手したい、と申し入れたところ、ジョン・ブースは、兄のエドウィンと違い、大統領に愛想よくするわけがなく、「リンカーンと握手するぐらいなら、ニガーのほうがいい」とにべなく断ったらしい。リンカーンは、2度とジョン・ブースの芝居は見に行かなかった(125ページ)。リンカーンが大統領に再選された1864年の秋ぐらいから、ブースは俳優業をやめている。頭の中で、「秘密の使命」がうごめきはじめ、もはや止められなかったのだろう。

 

3月23日から4月6日まで、リンカーンは、バージニアのシティポイントにいるグラント将軍を見舞った。南部連合の首都、バージニアのリッチモンドは、4月3日に陥落。翌4月4日から5日にかけて、リンカーンは敵のいなくなったリッチモンドに乗り込む。4月9日、ついにリー将軍がバージニアのAppomattox の裁判所で、グラント将軍に降伏。やっと、南北戦争終了。が、ラジオもテレビもインターネットもなかった時代(笑)、何も知らない兵士たちは各地でまだまだ戦い続けていたとか。確か太平洋戦争でも、天皇の玉音放送のあとに、特攻隊として飛び立っていった人たちがいたのではなかったか。

 

4月10日、ワシントンで祝勝イベントが行われ、翌4月11日、リンカーンはホワイトハウスの窓から、最後の演説を行った。南部の状況を語り、かつこれからどうやって連邦に回復させていくのか、国が直面している困難な再建を訴える演説だった。祝勝ムードのなかで、誰もこの演説を聞いてはいなかった。いや、一人だけ、群衆の一番前で、リンカーンの真下で、じっと耳をすませて聞いている人間がいた。ジョン・ウィルクス・ブースである。南部に対して、何かラジカルなことを言うのではないか。気持ちを張り詰めているブースが、自分のすぐ近くにいることなど知るはずもないリンカーンは、次のように言った、「中には、黒人に参政権がないことに満足している人もいるでしょうが、私はそろそろ、非常に知的で、軍隊に入って国のために尽くした黒人には参政権を与えてもいいと考えている」。ブース、腹の中が煮えくりかえる思いで、いよいよ暗殺決行を自らに誓った。「That menas nigger citizenship. Now by God, I will put him through」(210ページ)きびすを返して、群衆を突き飛ばすようにして、その場を離れたブース。仲間のルイス・パウエルに、「これがやつの最後のスピーチになるだろう」と告げた。暗殺決行は、それからわずか3日後のことである。