リンカーンの国から

 

(57)南北戦争―1864年

 

 

Text Box:  Text Box:  私が夢中になって、マーガレット・ミッチェルの「風とともに去りぬ」を読んだのは、小学校5年生の時だった。美人で、またたくまに男性を虜にしてしまうスカーレット・オハラにものすごく憧れた。(笑)それから、北軍による海上封鎖を破り、禁制品の取引で羽振りのいい生活をしているレット・バトラーにも憧れた。男はやっぱりお金だよ、とその時から思った。(笑)私自身がスカーレット・オハラから程遠いのはよくわかっていたが、世間からは悪者扱いされようとお金をいっぱいもっていて、しかも気の強い女を上手に扱える、つまり「じゃじゃ馬ならし」ができるレット・バトラーこそが私には必要な男性だと直感したのは、まだまだ社会全体がおぼこかった40年以上前の、思春期前のお気楽な小学生にしてはなかなかの慧眼だったのではあるまいか。(笑)

Text Box:  Text Box:  映画も何度も見た。アトランタが炎上して、大画面全体が真っ赤になるアトランタ陥落のシーンは今も目の奥に焼きついている。レット・バトラーが、大混乱するアトランタ市内でやっとこさ見つけてきたやせ衰えたロバに、産褥期のメラニーと生まれたばかりの赤ん坊を乗せた荷車をひかせ、レット・バトラーといっしょにアトランタ脱出をはかったスカーレット。やっと、ここまで来れば安心と思われる場所まで逃げてきて、バトラーがスカーレットに言う、「僕は今から南軍に入隊する。」スカーレット「負けてる軍に入って、今さらどうするのよ」「君には分からないだろうな。これが、南部人の誇りなんだよ。」「病人と赤ん坊がいるのよ。女一人、こんなところにおっぽりだして行ってしまうなんて、どういうつもりよ」「君なら大丈夫だよ」とにこっと笑ったバトラーは、南軍の疲れきった兵隊たちのあとを追う。。。(といった感じではなかったか。このあたりの情景は、まるで私自身がこの目で見てきた記憶でもあるかのように、完全に私の身体の一部になってしまっているから、何度小説を読み返し、映画を見たのか、おのずとわかるというものだ。小学生時代から数え切れないぐらい読んだり、見たりしているのである。笑)

アトランタが陥落したのは1864年のことである。

 

Text Box:  3月14日、リンカーンは20万人の徴兵命令を出した。5月5日から1週間、グラント将軍率いる北軍とリー将軍率いる南軍は、バージニアで戦い続けた。6月8日、バルチモアで北軍党ー共和党とWar Democratsの連立党ーの全国大会が開かれ、リンカーンを大統領候補、テネシー州のアンドリュー・ジョンソンを副大統領候補に選出した。6月20日、リンカーン、グラント将軍を戦地に見舞う。1週間後の28日には、逃亡奴隷を見つけたら所有主に返さねばならぬという1854年の逃亡奴隷法を廃止する法案に署名、7月11日には、南軍がワシントン郊外のスティーブンス砦を攻撃、リンカーンが見た唯一の戦闘とか。見たといっても、遠くに煙でもあがり、大砲の音でも聞こえてきたという程度ではないのか。1830年代、イリノイであったインディアンとの戦い、ブラックホーク戦争にリンカーンは義勇軍の隊長として従軍したけれど、殺したのは野生の玉ねぎと蚊ばっかりだったそうで(笑)、人の殺し合いそのものには全く関わっていない。それは現代の大統領も同じだ。大統領とは戦争開始の命令は出すけれど、自分の手はきれいにしておくのが大統領の「特権」ということなのだろう。(怒)

Text Box:  7月18日 リンカーン、50万人の義勇兵の動員命令。9月1日 ウィリアム・シャーマン将軍率いる北軍がアトランタを占拠。アトランタ陥落。この勝利によって、リンカーンの再選が決まったようなものだとか。内田義雄曰く、戦争があまりにも長引き、国民のあいだには、リンカーンではこの難局の打開は無理ではないかという声が高まっていた。「戦争は失敗だ」とする民主党は、まだ国民的人気の高かったマクレラン将軍を大統領候補に指名し、和平交渉による戦争の終結を選挙綱領にかかげていた。(「戦争指揮官」262ページ)10月31日 ネバダ州が北軍に加入。このころである、リンカーンがホワイトハウスで、ソジョーナー・ツルースと会ったのは。

 

Text Box:  ソジョーナー・ツルースー1986年、切手にもなった黒人女性活動家である。奴隷制反対、禁酒主義、女性や元奴隷の権利、刑務所改革を訴え、1840年代、50年代の社会改革運動の中心的存在だった人である。本名はイサベラ・ボームフリー。1797年、ニューヨーク州のオランダ人の大佐の家で、12人兄弟の一人として奴隷に生まれた。オランダ語を話し、英語は話せなかった。もちろん読み書きはできない。母親が毎夕、宗教儀式を行い、そこでイサベラは、アフリカのアニミズムと神秘的霊感を重視するキリスト教とが混合した宗教を身につけていく。大佐が死ぬと、両親は自由の身となったが、子供たちは奴隷として売られていった。

イサベラは、イギリス人、オランダ人と所有主が変わり、1810年、4人目の所有主ジョン・デュモントのところで、16年間、料理・洗濯、織物、野良仕事とよく働いた。6フィートの身長と、強靭な体と精神力をもったイサベラは、恋もしたが、デュモントに許されず、好きでもない男と結婚、5人の子供を生んだ。1826年、ニューヨーク州が1827年からすべての奴隷を解放するという法律を成立させると、イサベラは、一番下の子供といっしょに逃亡、クェーカー教徒、ヴァン・ウエイジネンスの家に逃げ込む。

1827年の夏、アフリカーダッチ系の奴隷が毎年行う宗教祭「ピンクスター」で、イサベラは神と直接会話するという啓示を受け、それから教会での説教を始めるようになった。デュモントがニューヨーク州法に違反して、州外に奴隷として売った息子ピーターを必死で取り戻すと、1829年、ニューヨーク市に移り、家政婦として働きはじめる。が、教会のスキャンダルにまきこまれそうになり、どうにか難を逃れたイサベルは、自分の足で立つと決心。そして真実しか話さない"渡り鳥"になるという意味だろうか。ソジョーナー・ツルースと名前を変えて、説教旅行をはじめたのである。ニューイングラドからインディアナやミズーリ、カンサスと中西部まで、教会のネットワークを利用して演説をして回った。やがて、即時奴隷解放論者のウィリアム・ロイド・ギャリソンや同じ説教者のフレデリック・ダグラスたちと知り合うようになる。

当時、世界の終わりが近づき、キリストが再臨するという思想運動が最高潮を迎えており、キリスト再臨論者たちが奴隷制反対などの社会改革をめざした。それは、女性の権利獲得運動支援者とも軌を一にしていた。その意味で、ツルースは時代の波にのったのであり、ラッキーだったといえよう。1850年には、奴隷制反対論者のオリーブ・キルバートがツルースの自叙伝を書き、演説会で販売、彼女の名声は高くなっていった。

Text Box:  ツルースのすばらしさは、学校教育を受けていなくても、問題の本質を見抜く力をもっていたことだろう。物事の本質とは、19世紀だろうが、21世紀だろうが変わりはなく、彼女の主張は非常に現代性を帯びていた。

当時の社会改革運動は、奴隷とは男であり、女とは中流・上流階級の白人のことであるという白人中心の考え方だった。黒人女性が完全に無視された時代に、ツルースは、人々に、黒人女性も女であることを突きつけた。現代でもまだまだフェミニズムは、白人女性中心志向に支配され、有色人種の女性に対する差別を内包している場合も多い。19世紀にあって、人種差別と性差別、さらには階層問題も視野に入れて、ウイットに富んだ、怖いもの知らずの口調で、持たざるもののために熱狂的に権利を訴えたツルースは、非常に現代的な女性だったのである。有名な「私は女じゃないのか(And Ain't I a woman)」のスピーチをしたのは、1851年、オハイオ州のアクロンで開かれた女性会議でのことである。聴衆の中にいた牧師が、女に同等の権利を与えることを否定した。女は弱弱しく知性にかけている、キリストは男だし、女は男を誘惑して原罪に導いた存在だから、と女を蔑視する発言をしても、白人の女たちは何も言い返そうとはしなかった。でもツルースは、立ち上がって言ってのけたのである。

「キリストはどこから来たの。あんたのキリストはどこから来たの。神と女のあいだから来たんだよ。」

女とは、男に頼るだけのレディという淑女、つまり白人だけではなく、男並みに仕事をする奴隷であっても女は女だと主張した。1858年のインディアナ州での集会でも、彼女を男だと嘲笑した牧師がいた。その時も、「自分の乳房を白人の赤ん坊が吸った。私は教会で胸をはだけることを恥ずかしく思わない。恥ずかしくなるのはあんたたちのほうだ」と言い返し、胸をはだけて見せた。

 

ツルースは、女性の参政権問題にも言及、そこでも現代性を発揮している。大半の男や奴隷解放論者たちが、黒人男性の参政権獲得を最優先にすべき、女は男の邪魔をするな、と主張したのに対し、ツルースは真っ向から反対、抗議した。そして、参政権は人種に関係なく女も含むべきだ、黒人の男にだけ参政権を与えるのなら、黒人の男が女全般に対して「奴隷の主人」になるわけで、それでは今までの状況と同じだ、と問題の本質を喝破している。

 

南北戦争中は、傷病兵の世話をしたり、食料や衣料を集める運動に関わった。1863年には、「アンクルトムの小屋」を書いたストウ夫人が彼女への賛辞を雑誌に発表している。1864年10月、ホワイトハウスでリンカーンに会ったときは、ツルースは解放されてもホームレスとなった元奴隷の現状を知り、最低限の生活水準を維持できる教育や権利を要求、西部の土地に解放された元奴隷たちの自治地域を設けることなどを提案した。かつて、海外に植民地を作り、黒人を送りだそうと考えたこともあるリンカーンさん、うん、それはいいアイデアだ、とうなづいたのでは。。(笑)

 

11月8日 民主党のジョージ・マクレランを破って、リンカーンは大統領に再選された。233人の選挙人のうち212人を、人気投票の55パーセントを獲得。11月21日には、ボストンのリディア・ビクスビー夫人にお悔やみの手紙を書く。よっぽど有名な手紙なのだろう、岩波文庫の「リンカーン演説集」にも収められている。曰く「拝啓 陸軍省の書類綴りの中にありましたマサチュセッツ州軍務局長の報告書を見まして、夫人が名誉の戦死をされた五人の令息の母上であることを知りました。。。しかし私は、五人の方が生命を捧げて護られた、わが共和国の、捧げる感謝の言葉を、貴方の慰めとなりうるかと存じ、申し送らぬわけには参りません。。」(153ページ)5人の息子を亡くした母親の気持ちを、リンカーンは労わっている。自分も二人の息子を亡くしているから、逆縁の悲しさは理解できるし、息子たちを産んだ母親の気持ちともなると。。。トップになる人は、大胆にして繊細、と誰かから昔聞いたような気がする。

 

Text Box:  戦況は、といえば、アトランタを放棄したにもかかわらず、南軍は降伏しようとしない。とうとうシャーマン将軍は、私有財産の破壊に注意を促すリンカーンを全く無視して、ジョージア州の徹底的破壊を決意。アトランタから大西洋岸サバンナまでの直線距離750キロを、鉄道や軍事施設ばかりではなく、プランテーションの館や納屋、家畜小屋など民間人の所有物も徹底的に破壊しながら進軍した。「シャーマンの部隊の跡は草木も生えず」と言われるまで、破壊しつくして、海に到達。(内田義雄「戦争司令官リンカーン」267ページ)12月21日 シャーマン将軍、サバンナ占領。ニュースは、リンカーンにとってすばらしいクリスマスプレゼントとなった。

 

Text Box:  ミシガン州バトルクリーク。人口53000人の町の中心、市役所横の公園の一角に、ソジョーナー・ツルースの大きな像が立っている。像が実物に似せて造られたとは思えないが、右手を演壇の上におき、左手を大きく広げた堂々とした体躯は、やはり彼女の存在価値の大きさを表現するものだろう。明らかに、名説教者として、世間を風靡した彼女のオーラを伝えようとしている。彼女の像がバトルクリークにあるのは、1883年11月26日にこの地で亡くなっているからである。糖尿病か足の潰瘍が原因とされる。ツルースがはじめてバトルクリークにやってきたのは1856年、クエーカー教徒の集会に呼ばれた時だった。それから1年後に移ってきて、残りの26年をこの地で過ごした。

町中のオークヒル墓地に彼女の墓があった。立派な碑が立っている。碑の前を小さな野花が飾る。碑には推定年齢105歳と刻んであった。同じ活動家のフレデリック・ダグラスが、暴力を使ってでも奴隷制反対を訴えようと提案したとき、彼女が放った有名な言葉、「神は死んだのか」も。そばに、彼女の5人の子供のうちの2人、エリザベスとダイアナ、そして2人の孫、サミュエル・バンクスとウィリアム・ボイドが眠っている。

 

私は、テネシー州メンフィスにある人権博物館で買ったTシャツを着る。ツルースの言葉が書いてある、「Ain't I a woman?」jこの言葉を読んで、私にノーを言う人にはまだ出会っていない。(笑)「大きい女の存在証明」という本を書いた21世紀の大足のシンデレラの思いは、19世紀に6フィートだったソジョーナー・ツルースが、胸をはだけて見せた思いとどこかでつながっているかも知れない。いつの時代でも「女はつらいよ」なのである。(笑)

 

Text Box:  Text Box:  1939年、映画「風とともに去りぬ」がアトランタで初公開となり、プレミア大パーティが開かれた。黒人隔離がまかり通っていた時代、白人スターと同席できない黒人俳優たち、スカーレットの乳母役を演じ、アカデミー賞を獲得した初のアフリカ系アメリカ人、ヘイティ・マクダニエルなどはプレミアショーに出席しなかったとか。マーガレット・ミッチェルは、奴隷制を批判することなく、単に古い南部の生活をノスタルジックに描いただけだとか、黒人のステレオタイプ像を煽っていると、今だにさまざまな議論を呼び起こし続ける作品だが、戦後、日本占領を行ったマッカーサー将軍が、日本全国の間に合わせの映画館でこの映画を上映し、日本人に戦後の復興・再建を促したと読んで、思わず「タラのテーマ」の音楽が口にのぼってきた。忘れられないメロディである。ストーリーの最後で、とうとうレット・バトラーに捨てられたスカーレットが、地面の土を拾い、握りしめて言うのである、「そう、私にはタラ(故郷)がある、タラに戻ろう。タラに戻って、またやり直そう。」移民はどうしたらいいの。。(笑)