「リンカーンの国から」

 

(24) 1850年

 

 

 1849年、リンカーン40歳。ワシントンから帰ってきて、弁護士業に専念、家族いっしょの生活も再開した。悲喜こもごもの"充実"した日々だった。

 

 その頃のアメリカ政界では、メキシコとの戦争の結果、新しく手に入れた広大な土地に奴隷制を導入するかどうかでもめ始めていた。奴隷制問題なんてまったく人道とは関係がない。ただ政治家たちが議会で自分たちの守備範囲と影響力を広げたかった、派閥争いのダシにすぎないのである。

 

 実は、連邦下院議員時代のリンカーンは、メキシコとの戦争が大統領の憲法違反行為であるという批判以外に、奴隷制問題についても、自分の立場を表明しようとした。ワシントンDCでの奴隷制廃止と解放された奴隷への補償法案を議会に提案しようとしたのである。しかし、大統領批判でリンカーンがどんなに攻撃されたかを考えると、リンカーンの案を支持しようとする者はなかった。「負け犬」につく政治家はいない、ということである。リンカーンは議会に法案を提出することなく、政界から引退したのだった。 

 ところが奴隷制問題は、リンカーンが議員生活を引退した1850年に大きな転換点を迎えている。

 

Text Box:   領土を西へ西へと拡張していくにつれ、議会での力の均衡をめざした政治家たち。まず1820年に、ミズーリテリトリーに奴隷制を導入するかどうかで議論が起きた。リンカーンが信奉するヘンリー・クレーが妥協案を議会に提出、東部メーン州を自由州とする代わりに、ミズーリは奴隷州にする、そしてミズーリを除く、北緯36度30分(アーカンソーの北境)より北は奴隷制禁止にする、そうすれば上院でのバランスが維持(自由州が11、奴隷州も11)できる、というものだった。

 この妥協案はなかなか効果的で、しばらく平穏な時代が続いたのだが、1848年、メキシコから広大な新領土が手に入ると、またもやもめはじめた。

 

 テキサスの西境が一番大きな問題だった。、ニューメキシコがテリトリーの地位を求めていたが、テキサスはニューメキシコの分離を阻止するのに軍隊を使うと宣言、一方テイラー大統領も、テキサスがニューメキシコにこだわるなら、連邦の軍隊を派遣すると宣言、そこでまた登場したのが、「妥協の神様」ヘンリー・クレーである。

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 1848年の大統領選で、メキシコ戦争の英雄、テイラーにホイッグ党の指名を奪われて、いったんはリタイヤしようと思ったものの、1849年再びケンタッキーから上院議員に選ばれたヘンリー・クレーは、再び妥協案を提出、今度は、まずテキサスは、現在ニューメキシコとなっているリオ・グランデ川の東の土地を手放すことで財政的補償を得る、ニューメキシコテリトリー(現在のアリゾナやユタを含む)は、特に奴隷制を禁止するわけではない、カリフォルニアは自由州にするというものである。 カリフォルニアは、1848年の金発見で入植が進み、人々は1849年10月13日に反奴隷制の憲法を作って、北部への参加を要請した。が、上院のバランスを崩すというので、カリフォルニアの北部は自由州に、南部を奴隷州にしようか、といった案も出たが、南部カリフォルニアは奴隷州のアメリカ南部のような肥沃な土地ではないという理由で、カリフォルニアを二分する話は見送られた。

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 1849年12月3日、議会が始まり、1850年1月29日、72歳のクレーが妥協案をスピーチしたが、反応はあまりよくなかったとか。法案を押す力となったのはむしろ、イリノイ選出の大物議員、スティーブン・ダグラスだった。政治家たちが喜んだのはたぶん、テキサスに手放させた現在のネバダ、ユタ、ワイオミング・コロラド・アリゾナ・ニューメキシコの一部での奴隷制の導入は「人民投票」で決めようという、玉虫色の見かけの甘い餌だったろう。ダグラスらしい。

 

  この妥協案には、厳しい逃亡奴隷法と、逆にワシントンでは奴隷売買(奴隷制そのものではなく)禁じるという条項も含まれていた。まあ、なんと頭のいい政治家たち。。なんやらかんやら知恵をしぼって、双方に飴と鞭をちらつかせ、おだてたり、ひいたりして、しかも自分は損をしないように、かつ自分が「偉く」なることを考えるんだね。。南北の取引のこざかしさを読んでいると、思わず「ご苦労さん」といいたくなる。

 

 逃亡奴隷法とは要するに、すべての市民は逃亡奴隷をつかまえる義務がある、というものである。逃亡奴隷をつかまえなかった連邦保安官やほかの役人は1000ドルの罰金を課された。黒人をつかまえると、所有者が「こいつだ」と言いさえすれば、それだけで「逃亡奴隷」になるわけで、つかまえられた人間が裁判を要求することはできなかった。また、奴隷の逃亡を助けた人間は、6ヶ月の刑務所か1000ドルの罰金を課せられた。

 

 ジェファーソン・デイビスが率いる大半の南部民主党は、ワシントンでの奴隷取引廃止は憲法違反だと妥協案に反対、大半の北部ホイッグ党も、新しい逃亡奴隷法に反対して妥協案に反対、自由州と奴隷州の境界線の州はより厳しい逃亡奴隷法に賛成して、ダグラスの北部民主党と南部ホイッグ党が妥協案に賛成した。

 この妥協案のおかげで、政治的平和が4年ほど続き、南北戦争は10年あまり"延期"されることになった。戦争が10年遅れたおかげで、北部はさらに工業化を進め、富を蓄積した一方で、無償労働の奴隷制と労働集約的な綿栽培に依存する南部では工業化が遅れ、南北のギャップが拡大した。

 

 国政レベルでは、奴隷制問題は、しょせん政治家たちの派閥抗争の道具にすぎなかったが、すごいなあ、と思うのは、草の根の人間たちのエネルギーである。1850年の妥協案とともに成立した厳しい逃亡奴隷法は、北部での奴隷制反対機運をむしろ後押しするものとなり、人々のエネルギーと熱意、信念をかきたて、政治家の自己保身の思惑とは別に確実に社会を動かしはじめた。

Text Box:  1837年、イリノイ州南部アルトンで殺された奴隷制反対論者イライジャ・ラブジョイを応援したエドワード・ビーチャーの妹、ハリエット・ビーチャー・ストー夫人が、厳しい逃亡奴隷法に憤激して、「アンクル・トムの小屋」の連載を、奴隷制反対新聞「ナショナル・エラ」に始めたのは、法が施行された翌年1851年のことである。時代が確実に動きはじめる。

 

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